夏目漱石 『三四郎』 角川文庫
作中のあるテーマに関して、簡単にまとめる。
1. 偽善
作中の先生は偽善について、「たいへん親切にされて不愉快な事がある」という。それはどのような時かと言うと、「形式だけは親切にかなっている。しかし親切自身が目的でない場合」である。(p.181) これに関しては、以下にもう少し引用する。
ここで、教員が偽善者であると説いてあるのが興味深い。「生徒のため」という建前はあるのだろうが、それはあくまで建前であり、実際は食っていくためにやっている、という事だろうか。このように、建前の目的と実際の目的のずれを指摘して「偽善」と述べている。では、建前と実際の目的が一致するものはなにか。
2. 露悪
作中では、偽善の対義語のような位置に「露悪」という言葉が使われている。これについても、本文から引用する。
「これに反して与次郎のごときは露悪党の領袖(りょうしゅう)だけに、たびたびぼくに迷惑をかけて、始末におえぬいたずら者だが、悪気(にくげ)がない。可愛らしいところがある。ちょうどアメリカ人の金銭に対して露骨なのと一般だ。」(p.182)
目的がはっきりしていて、かえって開き直っているようなところが正直で、好印象を与える。これに関しても引用する。
「それ自身が目的である行為ほど正直なものはなくって、正直ほど厭味のないものはないんだから、万事正直に出られないような我々時代の、こむずかしい教育を受けたものはみんな気障(きざ)だ。」(p.182)
3. 露悪的偽善
以上では偽善と露悪について述べた。しかし作中において、もうひとつ述べられている。あえて言うなら、「露悪的偽善」とでも言えるものである。これは、「偽善」による不快感を与える事を目的とした行為である。これに関しても引用する。
「昔の偽善家はね、何でも人によく思われたいが先に立つんでしょう。ところがその反対で、人の感触を害するために、わざわざ偽善をやる。(中略)相手はむろんいやな心持がする。そこで本人の目的は達せられる。偽善を偽善そのままで先方につうようさせようとする正直なところが露悪家の特色で、しかも表面上の行為言語はあくまでも善にちがいないから、―そら、二位一体というようなことになる。」(p.183)
これはいわゆる「嫌味」とか「皮肉」とかを言っているのでしょうか。
4. 偽善に関して:持論
作中に「偽善」も「露悪」もあるのに、「善」についての言及がありません。ここから無理やり論を展開すると、要するに「人間は偽善者でしかあり得ない・前者ではありえない」ということが言えるのではないでしょうか。
これを機に、ここに持論を展開しようと思います。これ以下はあくまで持論ですので、本文とは切り離してお考えください。また、以下に関しては後日詳しくまとめてブログに掲載しようと考えています。
そもそも人間は、自分の意思で行動します。自分の意思による以上、その行為は自分のための、自分の意思遂行のための行為になります。したがって、「相手のための行為」は存在しえません。
それを平気で、「世のため人のため」といってする行為は偽善です。
百歩譲ってその意思を無視することが出来たとしても、その行為が本当に「相手のため」なのかどうかは疑わしいところがあります。人は、何の見返りもなしに「相手のため」に行動しないからです。
しかし、人間の偽善がまったく悪いものであるとは言えません。その偽善の上に世の中が成立しているというのは、認めなければなりません。
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