森ガールは自然を侮っている
これは、友人の奥君のつぶやきからとったものである。もちろん、真剣に否定しているというよりは、ジョークのようなものだと理解している。また、ここに記載することへの許可は得ていない。彼の意向次第では、この記事の修正、引用元の提示、ひいては削除も考えている。
要約すると、
「あの格好で森に入ったらかぶれる。森を侮っているのか。」
というものである。
この意見には、私は個人的には大賛成である。また、なぜ「森にいそう」というテーマにしたのか、そしてなぜそれが受け容れられ、流行ったのか、理解できない。しかし、蓼食う虫も好き好き、『他人の好みは分からない』などというように、他人の好みに“いちゃもん”を付けるのはよくないという考えもある。そこで、高校の国語の時間に読んだ「自然に関する文章」をきっかけにして、「森ガール」に関しての“休むのと同じような”考えを巡らせた。以下はその考えのまとめである。
人工的な自然を、自然と「自然」と呼ぶ私たちにとって、森ガールは自然な産物ではなかろうか。というのも、これまでも自然は管理されてきた。その点において「自然は管理されたもの・安全なもの・美しいもの」と言う風に認識されて来たと言える。しかしそれを「侮っている」とは言わなかった。
つまり、森ガールは自然の「管理」がいき過ぎた形であり、侮っているつもりはないのではないか。
ここで、夏目漱石の『三四郎』に、関係があるように思える箇所を見つけたので、引用する。
と意外な質問を放たれた。
「翻訳とは・・・・・・」
「自然を翻訳すると、みんな人間に化けてしまうからおもしろい。崇高だとか、偉大だとか、雄大だとか」
三四郎は翻訳の意味を了した。 (夏目漱石 三四郎より)
このことから、森ガールは自然を翻訳した形なのではないか、と考えることが出来る。
翻訳は、一種の解釈である。解釈には多様性がある。
ここでも、自然を「ファッション」という風に解釈したものと、「危険なもの」という風に解釈したものとあった。
そしてそれぞれの翻訳結果が「森ガール」であったり、「サバイバルてきな何か」であったりするのだろう。
筆者はここに、翻訳の多様性を見る。
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