自己紹介

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広島大学教育学部卒業。 読書・昼寝・ゲーム・カードゲームなどを趣味とする。 RIP SLYMEが好き。宮部みゆき・東野圭吾・星新一・夏目漱石・小川洋子が好き。 最近数学・宇宙論・翻訳などに興味がある。 アニメ・声優オタ

2011年4月30日土曜日

最高の人生の見つけ方

The Bucket List (2007)



・あらすじ
余命半年を宣告された二人が、
残りの人生をめいっぱい楽しもうと、
二人して旅に出るお話し。

・映画を見終えて

少し本筋とはずれますが、

「銀も金も玉も何せむに、優れる宝子にしかめやも」
山上憶良/やまのうえのおくら)

この句がふっと浮かぶ内容。

いつかこの句の意味をかみしめれるようになりたいなと思います。

おじいさんになっても、粋な人生を送り続けたいと思います。

2011年4月28日木曜日

Drink up me hearties yo-ho


Pirates of the Caribbean: The Curse of the Black Pearl

いつ見ても、何度見てもいい映画だと思います。

お酒を飲みながら見るのに最適だと思います。


内容もさることながら、僕が特に気に入っているのはセリフです。
この映画には、大きく二種類(フォーマル・インフォーマル)の言葉が使われています。

公邸で使われる言葉と、海賊が使う言葉です。

前者は、高級語彙をつかったセリフや、「うまい」とおもわせるような丁寧な言葉遣いが、
後者には、いわゆる「荒くれ者」がつかうような、文法を無視したような俗語(古い言い方?)などが見られます。

前者の例としては
I provoke the right of~~
後者の例としては
I changed me mind.
などです。

特に後者は、日常会話に応用できるような英語の学習には向いていませんが、一般的な「英語学習」にはなるのではないかと思います。


最後に、僕が気に入ったセリフをそれぞれから一つずつ抜き出して紹介します。

①Governor(お偉いさん) の娘:エリザベスと、Blacksmith(鍛冶屋) のウィリアムの会話から

E)How many times must I ask you to call me Elizabeth?
W) At least once more, Miss. Swan, as always.

(名前で呼んでって、何度言えば分かるの)
(いつもの事ながら、この次こそは)

②掟(Code)を破って仲間を助ける(?)シーンより

A)Well, you are suppose to keep the code.
B)We figured they are more actual guidelines.

(掟を破ってもいいのか)
(ありゃどっちかってと指針だろ)

①に関して
ウィリアムの作法に感心させられます。僕もこういう風に、上手いことを言える人に成りたいです。

②に関しては
教師にとっても、「指導要領」は一種のガイドライン的存在ではないでしょうか。
「そういう決まりだから」とか、「指導要領が・校則が・法律がどうだから」何て言う事に縛られ過ぎず、もっと柔軟な対応が出来る人間に成りたいです。


以上だらだらと書いてきましたが、

映画を見た後の興奮
ネタばれの阻止
飲酒による酩酊

等が原因で、まとまりのない文章になっていると思います。
英語の引用文も間違えているかもしれません
それに対応する日本語もおかしいところがあると思います

お気づきになられましたら、ご指摘願います。

要するに、Pirates of the Caribbeanの良さを知るには
Pirates of the Caribbeanを見てくださいということです。

500円~800円程度で中古があります。
レンタルなら100円
Youtubeならただです。

みて損する映画ではないと思いますので、
興味のある方はぜひご覧ください。
続編もお見逃しなく。

2011年4月27日水曜日

読書の愉悦を次世代に

村上春樹(2002) 『もしも僕らの言葉がウィスキーであったなら』 新潮文庫
柳瀬尚紀(2000) 『翻訳はいかにすべきか』 岩波文庫




友人の奥君に『もしも僕らの言葉がウィスキーであったなら』という本を借りて、休憩時間中に読ませてもらったので、その感想を書こうと思う。また奥君も「奥ism」にてこの本についてのブログ記事を書いている。


村上春樹の本が手元にないため、本からの引用は読書中のメモをもとにする。

1. ウィスキーのロマン (村上春樹)
本書は、現地での取材・現地の写真などを通して、ウィスキーのロマンを読者に伝えるものである(ように思う)。その手段として村上は、「手紙」と「文学」をウィスキーの例えとして用いている。
1.1. 時間を超える存在
ウィスキーがロマンを持つ理由の一つとして、時間を超えた存在である事を挙げている。ウィスキーが世に出回るのは、作った職人の没後であるかもしれない。しかし、その職人が今あるウィスキーを作った、という事実は消えない。(p.45)こうしてウィスキーは時を超えるのである。 村上はこのことを指して、ウィスキーを飲むのは、暖炉の前で古く懐かしい手紙を読むようだと言っている。(p.57) 時がたてばたつほど、その手紙は懐かしさや味わいを増していく。
1.2. 深みを帯びた存在
熟成されたウィスキーの味わい深さを、村上は「アーネスト・ヘミングウェイ」の作品の奥深さと比較している。(p.62) ウィスキーを味わう喜びも、文学作品を味わう喜びも、こういう点では似ているのではないか。

「文学の深さを楽しむ」と言う点に関して、柳瀬の著書に興味深い箇所があったので以下にまとめる。

2. 翻訳は無上の精読(柳瀬尚紀)
本書『翻訳はいかにすべきか』に関しては、別の記事にまとめを載せているのでそちらを参照していただきたい。ここではその中でも、「翻訳の愉悦」、という箇所(第三章 p.112から)について引用する。
2.1. 堀内大學
堀内大學という翻訳者は、翻訳の愉悦を味わった人物の一人である。以下に彼が六十四歳の時の言葉を引用する。

くりかえし、くりかえしその詩を読んでいると、その詩に対する欲情が僕の内部に湧いてくる。美女に対する男性の欲情、あれと変わりのない気持ち、つまり自分のものにしたいというあの欲情だ。詩をわがものにするには、原作にフランス語の着物を脱がせ、一度裸にした上で、これに僕の言葉の着物を着せる以外の手はないと気付いた。つまり僕の訳詩は、恋焦がれる美人のやわ肌に触れると同じ気持ちでなしつづけられたというわけだ。(p.114)

彼にとって「翻訳」は「またとない精読の機会」であり、彼の「喜びの大半は、完全な精読の機会を与えられること」であった。(p.115 旧字体は新字体に改めた)

2.2. 澁澤龍彦
翻訳の愉悦を知るもう一人の人物として、澁澤龍彦が挙げられている。彼が、他人の訳書について書いたものを引用する。

訳者はこの貴重な文献を翻訳するのに、苦心惨憺したと述べておられるが、このような翻訳に伴う苦心は、他の下の別名といってもよいのではあるまいか。(p.117)


3. 読書を楽しむということ
以上、村上春樹・柳瀬尚紀の本から至極恣意的に内容を抽出して書いてきたが、要するに、

私も読書を楽しみたい

という事である。←

そして、その読書の楽しさを生徒に教えていきたい。出来るだけ多くの人に読書の愉悦を知ってほしい。

将来教師になったら、ウィスキーを残すことは出来ないが、その代わりに生徒を残していくことは出来る。そう考えたら、教員という職業は、なんと責任の重く、なんと素敵な職業だろうか。

2011年4月26日火曜日

RIP SLYME 官能小説

RIP SLYME (2008)『届かぬ思い』 宝島社



1. 構成
1.1. 小説
RIP SLYMEの5人がリレー形式で書く官能(爆)小説、『届かぬ思い』。順番は「SU→ILMARI→RYO-Z→PES→FUMIYA→SU」で、それぞれが思い思いのエロを展開→次の人にキラーパス→完璧すぎるトラップという繰り返しで成り立っている。RIP SLYMEは、歌詞の作成においても、ある程度の共通するテーマを決めてからは完全に個人作業になるようだが、その個人作業が行われる過程をここに垣間見ることが出来るように思える。
1.2. エロトーク
ビデオを借りる、などというエロトピックに関して、RIP SLYMEが語り合うところが収録されている。

2. 内容
所謂21禁のラベルを張られそうなトピックで、中学生にでも受けそうな“ばからしさ”を展開している。「み、見られたっ! 私のいわば十八番、ビデ&ムーブを見られたっ!・・・。 殺すしかない。ビデ&ムーブを見た人物は、いかなる相手であろうと消してしまわなければならない。輝夫! 何てことを・・・・・・。」などは、ばからしいというよりむしろバカである。(p.91) しかしそれでいて、話はしっかりまとまっている。 RIP の曲を一つ聞いているかのような心地で最後まですらすら読める一冊であると思う。遊び心満載の、RIP SLYMEを知るのには、よいきっかけとなったのではないか。


3. 日本におけるエロの問題点~まえがき・あとがきより~
まえがき・あとがきにおいてSUさんは、日本のエロ問題にいくつか触れている。それは、「エビバディ情報通(p.96)」であるという点である。コンビニで簡単にエロが手に入る。「体外受精」による「精子のブランド化」、それに伴い「エロは進化し、エロは退化する」(p.96) あとがきではこの、「進化したエロ」についての言及がされている。一方、「退化したエロ」に対しては、まえがきでこう述べている。「すでにエロを卒業したと感じている人」には、その世界観を見直すいいきっかけとなるはずである。」(p.17) 「エロに背を向けることは非常に難し」(p.188)い世の中で、エロがいかにしてあるべきかを伝えるのが、この本の真の目的ではないだろうか。


2011年4月25日月曜日

事件はどこで起きているのか

宮部みゆき(2002) 『理由』 朝日文庫



ある事件に関する真相を、ルポルタージュの形で解明していく600ページ程度の長編。

本書第三章冒頭(p.86)より
「磁石が砂鉄を集めるように、『事件』は多くの人々を吸い寄せる。爆心地にいる被害者と加害者を除く、周囲の人びとすべて―それぞれの家族、友人知人、近隣の住人、学校や会社などの同僚、さらには目撃者、警察から聞き込みを受けた人びと、事件現場に出入りしていた集金人、新聞配達、出前持ち―数え上げれば、ひとつの事件にいかに大勢の人びとが関わっているか、今さらのように驚かされるほどだ。」


この小説において、ルポなので当然ではあるが、事件はもう解決している。その事件が解決してゆく過程がルポの形式で、様々な人の視点から語られていく。主要線である事件の真相を知るのも、もちろんこの本の読みどころではあると思うが、その主要線の周りをらせん状にめぐっている『二次的な事件』も、またもう一つの読みどころであると思う。



事件に関わる人間は、自分の体験に基づいて事件を『再構築』する。
その時、その人にとっての『再構築』された事件は、現場で起きた事件とぴったり重なり合うものだろうか。


案外事件と言うものは、現場で起きているのではなく、関わる人間の、個人個人の中で起きているのかもしれない。






普段聞こえないもの

Twitterの機能を試すためのテスト更新のついでに
mixiの日記から引っ張ってきました。


ジョイフルにて。
今日何気なく音楽を聴いていると、普段より数倍もいい曲に聞こえた。

小説を読んでいる時でした。

人間の性質である「同情」能力を駆使して物語を読んでいる最中。
何となくいつもよりセンチメンタルな感じの時。
後ひと押しで涙がこみ上げてきそうな時。

大好きなGreen DayのMinorityが流れてきました。

その時、その曲が何とも言えないくらい良い曲に聞こえて、
なんだか楽しそうに演奏したりうたったりしている様子が垣間見えてきた気がしたり
人間って一つになれるんだ!!なんて悟った気になってみたり

とにかく、普段じゃあ聞こえてこないことが聞こえてきたように思えました。



もしかしたら普段も、こんなに楽しそうな演奏がiPodから流れていたのかもしれません。
もしかすると、普段は曲調とか歌詞とかに気を取られて聞き逃していたのかもしれません。
表面だけなぞって、もっと深いところを聞いていなかったのかもしれません。

音は変わらずそこにあっても、
受け手の気持ち次第で
聞こえ方は違うのかな、と思いました。

聞こえないこと
見えないこと
読みとれないことを

もっと読み取れる人間に成りたいです。

2011年4月23日土曜日

文学論としての小説の書き方

河野多恵子(2005) 『小説の秘密をめぐる十二章』 文春文庫



0. 本まとめに関して
このまとめは、大まかな内容を提示するのが目的である。そのため、本書は十二の章から成るのだが、本まとめにおいては大きく3つにまとめて提示する。その結果として、本書で扱われている通りの順番とは前後する箇所が多くある。

1. 何をどう書けばよいのか
まず最初に、小説を書くと言う事の大前提に触れていく。
1.1. 書きたいことをモチーフに
まず書きたいことが無ければ、文章を書くことが出来ない。ただしここで必要なのは、「書きたいこと」であり、「書きたいもの」ではない。「書きたいものとしてだけで書くのであれば、ただのお話にしかならない。」「書きたいこと」という、「作者の心―精神に根ざしたものであってこそ、創作衝動」が力を発揮するのである。(p.54)
1.2. 話すように書くな
“話すように書く”と言うのは、“緊張しすぎるな”という意味も込められているのであろうが、それでもやはり「文章というものは、緊張しすぎず、字句の選択に拘泥りすぎていじけることなく、〈書くように書く〉べきだろう。」(p.226) と、著者は述べている。書くように書くとはもっと具体的にどういう事なのか。これに関しては、第2・3章の「文章の呼吸」・「作品の育て方」を参照する。
1.2.1. 文章の呼吸
良い文章は、脈を打つ。つまり、「文章から文章が生みだされ、自由に展開して行っている」ものが良い文章であり、そのつながりが文章の呼吸である。(p.36) どれが正常でどれが異常かを知るには、「健康な脈搏に触れて、その感じを体得するしかない。」(p.33)
1.2.2. 作品の育て方
本書では谷崎潤一郎の言葉を引用しているた。ここにも、仮名遣いを改めて引用する。「既に生物である以上それはそれ自身に於いて統一された完全なものであり、部分は全体を含み全体は部分を含まねばならない。部分が成り立つと同時に全体が成り立ち、全体が成り立つと同時に部分が成り立つ。」(p.39) 要するに、全体の均衡が大事という事である。つまり、小説のどの箇所を取っても、そこに全体への貢献が見られなければならず、小説のどの個所を取っても全体からの影響が無ければならない。未完の文学が存在するのは、この均衡のためである。


2. 小説の構造
ここでは、小説の書き方・構成に用いる技法・虚構の種類、の三点について書く。
2.1. 始め方と終わり方
先の1.2.2で述べたように、部分と全体はお互いに均衡していなければならない。そのことは、導入・結びに関しても同じことが言える。
2.1.1. はじめ方
良い作品の導入には、「その作品の気配が早くも感じられている」ものである(p.120) それは登山の技術になぞらえるなら、「ザイルの最初のロックハーケンをどこに、どう確実に打ち込むか。そのむずかしさ、重用さ、そして、その巧拙が以後の行動に」多大に影響していく。(p.127)
2.1.2. 終わり方
本書では、まず、「どこで終わらすかを先ず決める」事が重要であると説く。その「どこ」を見分けるには、「少し手前で終わらせようとしてみることである。(中略)更に手前にすることもできそうではないか、と考えてゆけば、恰好の〈どこで〉に気のつくものである。」(p.139) これは、作品の余韻・余白を意識するのではない。早めに作品を終わらせることで、「文学的エネルギー」の「真横への噴出が作者に実感される。」(p.136) “句切れ”・“歯切れ”がよいということではなかろうか。
2.2. 筋と構成
筋と構成はよく同一のものとして考えられるが、別物である。筋とは、「人生そのもの」にも見られるため、自然主義系・私小説系・人生派小説と大きく結びついているようなものである。(p.151-152) では構成とは何か。それに関して、以下に二点に分けて書く。
2.2.1. 描写と視点
ここでは、「単元描写」・「複元描写」に触れる。「単元描写(一元描写)は常に作中人物の一人の視点による描写の方法」であり、「複元描写(多元描写)とは二人以上の人物の視線を用いる方法である。」(p.187) ここでおのずと問題になるのが、「人称」である。一人称と単元描写は関わりが強い。また、一人称では「自分の頸筋」を書くことが出来ない。(p.174) また三人称では、「嫌でも(中略)客観的な選択が強いられ」る。(p.186) 二人称の形は、「特異」であるとして省略している。(p.172)
2.2.2. 伏線
「〈伏線〉という言葉をたとえば広辞苑(初版)で見ると(中略)どうも〈筋〉との関係づけで考えられているようである。(中略)〈伏線〉に当たる英語は〈foreshadowing〉(中略)〈前表すること。前兆たること。〉」であり、この漠然と先を見通す感じこそが「伏線」である。(p.201)
2.3. 虚構
虚構には、「フィクション」と「変装」とがある。どちらとも、「隠す方法」ではあるがその「隠す」という行為を通して、「変装が自分の隠し」ている反面、「フィクションはより自分を現す」ものである。(p.199) つまり、「変装」とは、作者が別人として小説にあらわれるという「隠す」行為である。それに対して「フィクション」は、「自分を隠せば隠すほど」に「より深く、より鋭く、自分を現すことができる」のである。ここで現すものは「自分の事実を超えた自分の本質」である。(p.199)


3. 文章の書き方
ここでは、動詞と、精神的種族保存拡大という概念に関して書く。
3.1. 形容詞を含む動詞
著者は、「動詞には単なる同市ではなく、形容の要素を含んでいるものが実に多い」と言う。例えば、「撫でる」。これは、「表面をてのひらでやさしくさする」の意味であり、そこにはすでに「やさしく」という形容詞(副詞)が入っている。(p.218) つまり、「やさしく撫でた」というのはあまりよろしくない。些細なことのようだが、音楽においても「小さな音ひとつでも何気なく出たものであってはいけない、一音一音創らなくてはならない」というように、細部に至る表現が求められる。(p.219)
3.2. 精神的種族保存拡大
精神的種族保存拡大とは、要するに、他人への理解を求める姿勢の事である。「精神的種族」とは、言わば“思想・考え”である。それを他人との共感の中に「保存」する事、そしてそれを色んな人に共感してもらうという「拡大」を目的とする行為である。本書では、「地球の断面のよう」という比喩を用いて説明してある。「地球の断面のよう」という比喩は、はっきり言って共感しがたい。これを「読者に分かられ」るためには、「地球の断面とはこのようなものではないだろうか」と直す一工夫が必要である。(p.222) 










2011年4月22日金曜日

『「いただきます」を忘れた日本人』

小倉朋子(2008) 『「いただきます」を忘れた日本人』―食べ方が磨く品性― アスキー新書



1. マナーとは
マナーとは、相手を思いやる心・お互いに気持ちよく過ごす知恵である。これは食に関しても同じであり、テーブルマナーなどは、他人と「食を楽しく共有する」為のルールである。(p.17)
1.1 両手を机に出す
左手を机の上に出すという行為はかつて「手に武器を持っていないという証明」であった。この名残で「相手に警戒や緊張をさせない」作法として今に残っている。(p.23-24)
1.2 顔を上げる
複数での食事では“他人との時間を共有するため”、一人の時は“気持ちを落とさないようにするため”に顔を上げることが大切である。特に一人の時に関しては、「食事の時間は、生命維持につながるエネルギー源を取り入れる時間」であり、「気持ちによって、栄養の吸収力は変わる」ため、顔を上げることはエネルギーの吸収の効率化にも一役買っている。(p.27)

2.いただきます
「いただきます」は元来、料理提供者への感謝と言うよりは、命にたいしての感謝である。現代の日本人は、命への感謝を忘れかけているのではないか。(p.68-69)
2.1 命に触れる
近年、栄養を取るために野菜ジュースや果物のジュースを買う人が増えている。しかし、「切ってはじめて広がる食材の香りや、シャリシャリとした食感、飲み込む瞬間ののどごし、形がそれぞれちがうなど、桃という“存在”を覚えることは、最初から液状になって形を保っていないジュースではできない」。(p.89-91) この、「桃という“存在”を覚えること」が、いただきますの精神につながるのではないか。 
2.2 限定商品
近年、限定という言葉に、つい飛びついてしまう人が増えている。しかし、「一月限定」・「二月限定」・「夏・秋限定」など、実は「“限定”はたくさん」ある。その点、「かぎられた人生で出会う一食一食が、それこそ、かけがえのない“限定”食なの」ではないか。(p.116-118) 「いたるところに食がある」現代、ありがたみを覚える対象がずれているのではないか。

3. 食の自立
3.1 情報を食べる
食に関する情報が溢れている現代、情報を頼りに食を求めるのは当然かもしれないが、情報のみを頼りに食を求める姿は、「料理を食べるのではなく、まるで“情報を食べている”かのよう」である。(p.120)
3.2 料理人は食材バイヤーではない
産地直送・有機野菜など、よい材料を使っているところに行きたがるのは当然ではあるが、料理人はあくまで「料理のプロ」であって、食材探しのプロではない。(p.154)
3.3 毎日の食を見直してみる
カタカナの栄養素(コエンザイム等)につられるんじゃなくて、ちゃんとバランスを考えた食事にする・食事の時間を決め、リズムを作る・「個食・孤食」を避ける、などを見直してみる。「食べ方は生き方の鏡」であるから、食を見直すことは生き方を見直すことにつながる。


Schneewittchen→Snow White

グリム童話の英訳(改作)を読んで、その改作に関する考察をまとめる。
ただし、原文を読んだことがないので、完全に主観的な感想として書く。

注目する点は三点:

1.死体愛好家を匂わす
王子は死体愛好家では無くなっている。

2.ロリコンを匂わす
白雪姫は7歳である。

3.継母の処罰
熱した鉄の靴を履いて、死ぬまで踊らされる。




(1)の改作に関しては、童話に、死体愛好家の王子を登場させることに抵抗があったのだろうと推測出来る。
原作では、聞くところでは、王子は白雪姫が生き返ることを残念がるらしい
しかし改作において王子は、眠った白雪姫を連れ帰ろうとはするが、目覚めた時喜んでいる
変態の王子を出したくない・死体愛好という概念を提示したくない、などの意図があったに違いない。



しかしながら(2)の年齢設定を見るところ、王子はロリコンであるに違いない。

改作で

・王子の年齢が明記されていない点
・白雪姫が眠りに就いてから幾年もたっている点

から、王子と白雪姫の年齢差は問題にはならない、また、白雪姫もひとめで王子に恋をし、結婚の申し出まで受け容れるのだからそれ相応の年齢・精神年齢であったのかもしれないという読みも可能である。

とはいえやはり、その幾年を経るうえで白雪姫が成長したとは明記されていない。

以上、(1)、(2)から、王子が所謂「変態」であることをもみ消してはいないが、隠そうとはしているということができるのではないか。
つまり、“教育上あまりよろしくないこと”を隠そうとする意図があると見ることができるのではないか。



しかしその一方で(3)では、残酷な処罰を包み隠さず紹介している。

一つの可能性として、大きな偏見を持って言うと、英語圏においては、「アメリカンジョーク」のような残酷さは受け容れられやすい、と考えることができないでもないように思える。

また、ここで残酷な「非教育的」な事柄を入れることで、これまで隠してきた原文の「非教育的」な解釈の可能性を助けるという、「原文志向」の表れと取ることも出来る。


以上、(1)(2)(3)を踏まえて、この改作では、訳者の「原文を大切にしたいが、非教育的な概念を落とさなければならない」という葛藤が見て取れるのではないかと考える。

2011年4月21日木曜日

ご都合主義的現実感

小川洋子 (2000) 『偶然の祝福』 角川文庫

以下はこの小説に関する感想・考察である。
内容には触れない。

A:この小説について
この小説は連続小説である。
一章ごとに話は一応の完結を見せるが、
それぞれが有機的・時間的な関わりを持っている。



B1:この小説における「偶然」
タイトルにもあるように、この小説では度々「偶然」が起きる。

一般的に、このような「小説における偶然」はしばしば、「ご都合主義」と呼ばれる。
つまり、「小説が面白くなるように」、また、「この先の展開に合わせて」
「都合良く」事件を起こしたりすることである。


しかし、この小説における偶然は、
特に何らかの伏線を張っているようには見えない。(ただ読み取れていないだけだ、という可能性はあえて無視する。)
それに、あまりにもたくさんの「偶然」が、それも単発的に起きる。

B2:「偶然」の効果
「事実は小説より奇なり」という言葉にもあるように、
実世界とは、案外偶然に溢れているのかもしれない。

この小説における偶然は、そう言った「実世界に溢れる偶然」であるように思える。
その偶然ゆえに、小説が現実味を帯びているように感じる。

C:感想
この著者の作品では、事件や出来ごとがあまり起きない。
その分(?)、あれこれと考えたり、勝手な解釈を付けながら読むことが出来るように思える。
逆にいえば、筆者の読書力では一読してこの本を「読む」事が出来ない。何度か繰り返して読みたくなるような本である。

2011年4月20日水曜日

藤濤 文子(2007)『翻訳行為と異文化コミュニケーション』

藤濤 文子(2007) 

『翻訳行為と異文化コミュニケーション―機能主義的翻訳理論の諸相―』 松籟社

まとめ


このまとめは、大きく3つのセクションで構成されている。(1)においては、本書で扱われている用語の説明をする。(2)では本書で行われている訳文分析のa)概要と、b)分析結果を示す。(3)では、この本の結論を、主に本書からの引用でまとめている。

なお、文中に出てくる「ST」と「TT」とはそれぞれ、「Source Text(起点テクスト:翻訳前)」・「Target Text(目標テクスト:翻訳後)」を示す。

0.  本書のアプローチ

本書は「機能主義的翻訳理論」の立場をとって、翻訳を「異文化コミュニケーション行為」として捉えている。また翻訳に影響を与える要因を「言語の差」・「文化の差」・「コミュニケーション状況」という3つの観点に分け、実際の翻訳の比較・分析を通して考察している。

1.  機能主義的翻訳理論とは:12

翻訳を機能主義的に捉えることの意義は、「何のために、誰に対して、どのように、どの媒体で、といった翻訳行為を取り巻くコミュニケーション状況を自明のこととはせず、むしろそれこそが、そのように情報提供するかと言う翻訳行為を決定する要因とみなすがゆえに、翻訳の様々な現象が説明可能になるという点にある。」(p.34) つまり、今まで当たり前とされてきた“同じ原文から違う翻訳が生まれること”に焦点を当てて説明するものが「機能主義的翻訳理論」なのである。この理論は、以下の二つの理論を軸にしている。

1.1.  テクストタイプ別翻訳理論(Reiß 1971, 1976

このテクストタイプ別翻訳理論は、「あらゆるジャンルの翻訳の批評に用いることのできる基準を打ち立てる試み」(下線筆者)である(p.19)。具体的には、ジャンル別ではなく、言語が文章中で持つ主な機能を重視した理論である。

ビューラー(Bühler 1934)によると、言語は同時に3つの機能を果たすという。それは、①言語と対象との関連による「叙述機能」②言語と送り手との関連による「表出機能」③言語と受け手との関連による「訴え機能」である(p..19)。この理論を応用し、ライスはテクストを三種類に分けた。一つ目は、「情報型テクスト」、二つ目は、「表現型テクスト」、三つ目は、受け手に訴え、何らかの効力を与える意味で「効力型テクスト」である(p.21)。

 ライスの翻訳理論への貢献は、「翻訳ではSTの持つ3つの機能の全てを再現できない」ならば、「せめて重要な機能だけでも再現させよう」という翻訳のあり方を示した点にある。(p.24-25)

1.2. スコポス理論(Vermeer 1978, Reiß/Vermeer 1984)

スコポス(目的)理論とは、翻訳は「TTが、どのような目的で必要とされているのか」によって左右されるという理論である。(p.29) つまり、読みやすい翻訳をするのか、原文に忠実な翻訳をするのか、という目的次第で、同じ英文からでも全く違う翻訳が出来ることを示している。フェアメーアは、「翻訳行為で最も重要なのはこの目的」であり、「翻訳でなすべきことは(中略)翻訳読者との新たなコミュニケーションを成功させることだ」と考えている。つまり、「STを介したコミュニケーションとは異なった存在意義」をTTに求めたのである。(p.26)

2. 翻訳の多様性とその要因

ここでは、3456章を順にまとめていく。3章では、固有名詞の翻訳における多様性から翻訳の多様性を示し、続く456章では、翻訳に影響を与える要因:「言語の差」・「文化の差」・「コミュニケーション状況」を実例から分析している。

2.1. 固有名詞の翻訳:3

固有名詞の翻訳では、「綴りや音をなぞるという方法をとるのが一般的」であると考えられがちだが、「意味的側面が価値を持つ場合もあり、翻訳する際に音を重視するか意味を優先するかの選択を迫られたり」もする。(p.45-46)「限定的な訳しか許されないと思われる固有名詞においても、様々な訳出がなされている」ということから、「翻訳と言う行為における訳語選択の多様な可能性」を示唆している。(p.66)

2.2. 言語差が与える影響:4

a) 概要

異なる言語間において、語彙や文法は必ずしも一対一に対応しない。ここでは、名詞の単数・複数という数の文法に絞り、「言語の違いが翻訳でどのような現象を生むのか」、「その差を埋めるにはどのような方法があるのか」について、村上春樹の『ノルウェーの森』(1984)第一章の英訳・独訳における、普通名詞の訳し方から分析している。(p.70-71)

b) 著者による分析の結果

数の文法カテゴリーを持つ英語・ドイツ語においても、翻訳者の捉え方・解釈の仕方によっては「不加算名詞」や「合成語」などを使うことで、数の文法の束縛をまぬがれることができる。(p.81-82) つまり、「二言語間に数の文法的カテゴリーというラングレベルの差があるといっても、個々のパロールレベルにおいてはその差が必ずしも絶対的な影響力を持つとは限ら」ず、(下線筆者)「単複の区別を明示的に表示するかどうかは、翻訳者の捉え方をしなやかに反映するものである」と言える。(p.84-85) このように、訳者が「どのような見地に立つかで訳文が変わるのであれば、機能主義的に翻訳をみるマクロレベルの視点が必要」になるだろう、というのがこの章の見解である。(p.93)

2.3. 文化差が与える影響:5

a) 概要

言語の差異に加え、文化の差異も翻訳に影響する。本章では、吉本ばなな著『キッチン』他のドイツ語訳と英語訳を比較・分析している。ドイツ語訳では「注」が付けられているのに対して、英語訳ではそれがまったくない。その違いの分析を行うことで、文化差が翻訳にどんな影響を与え、実際のTTにどのように現れるかを明らかにし、文化の翻訳における多様性を浮き彫りにする。(p.95-96)

b) 著者による分析の結果

ドイツ語訳は、注を付けることで「イメージ」を正確に伝える反面、「読みやすさ」が犠牲になっている。(p.105) また、「日本の若者のライフスタイルや文化を積極的に紹介」しようとする翻訳者の意図が読み取れる。(p.108) 一方の英語訳は、「異文化要素をなるべく既知の要素を手がかりにしながら読者に提供することを優先し」ていて、「正確なイメージ」よりも「コミュニケーション」が成立することを目的としている。(p.105) つまり、翻訳のあり方の違いは、「どのような翻訳を志向するのか」という違いから来ている。翻訳の目的(スコポスルール)が結束性ルールよりも重要であることが、ここでも確認できる。(p.113)

2.4. コミュニケーション状況が与える影響:6

a) 概要

一つのSTからでも、様々なTTが成立する。それは、翻訳家たちの解釈の違い・時代の変遷などの、「コミュニケーション状況」・「翻訳行為における目的」に起因する。(p.115) 本章では特に、「媒体の異なるコミュニケーション」として、「映像翻訳」を考え、分析する。(p.116)

b) 著者による分析の結果

映像翻訳においては、「言語間の変更」以外にも、「音声から文字」という、「二重レベルの変換操作が同時に行われる」。また、「映像」や「音」などは、STがそのまま使われる。これは、「書物の翻訳ではありえないこと」である。(p.118-119) また、字幕には、「字数・時間制限」があり、「読み返し・中断」が出来ない。この時訳者は、「省いてよい言葉を取捨選択する」という、「取捨選択能力」が問われる。(p.121) このように「字幕翻訳」は、「顧客にわかる字幕」を作ることが目的であり、したがって「原文至上主義」の立場からの批判は不適切である。(p.130)

3. 異文化コミュニケーションとしての翻訳:78

STTTの間にずれが生じるのはある程度必然的である。あるいはそのようなずれは異文化コミュニケーション行為を成功させるために取られた選択行為の結果であると表現することもできよう。」(p.137) 例えば、「形式的側面を重視した翻訳」では「結束性」が問題になり、「自然な理解を目指した翻訳」では「忠実性とのバランス」が問題となる。(p.152) このように訳文分析をしていくことは、「異文化コミュニケーションの現場で何が起こっているかを具体的に見ていき、異文化理解の現状を明らかにするための有効な手段」である。(p.153) この分析に用いたスコポス理論は、翻訳をSTとの関係から見るのではなく、コミュニケーション行為として見る理論である。(p.156)

翻訳に影響を与える要因は、2で挙げた三点とのほかに、「翻訳者」の介入がある。(p.155)このことに関して、著者はこの本の締めくくりをこう書いている。

「翻訳者の介入のないテクストはない(中略)翻訳者がたとえ限りなく黒子に徹する場合であっても、それはそのように「意図」したものであるということを強調しておきたい。」(p.164)


アマゾン:翻訳行為と異文化コミュニケーション




2011年4月17日日曜日

クイズ From Youtube

英語の学習としても、Riddleを使うのは良いことだと考えます。
理由は以下の三点

・英語で考える習慣をつける
・単語や表現などの細かい意味に注意するようになる
・楽しんで学習できる←主観的

そこで、ここにYoutubeに上がっているクイズ動画をいくつかご紹介します。
中には、問題の提示から解答の提示までの時間が短いものもありますが、
べらぼうな短さと言うわけではありません。

ただ、英語が苦手と言う人には少し短いものもあると思います。

一時停止などで解答の提示を遅らせるかどうかは、皆さんの判断にお任せします。

前置きが長くなりましたが、以下に計16問投稿いたしますので、どうぞお楽しみください。





2011年4月15日金曜日

Hush Little Baby~パロディーと翻訳~



0.パロディーと翻訳
パロディーとは、ある元の作品をもじって、新しい作品を作り出す行為である(とする)。これは、パロディーのもとを「原文」、パロディー作品を「翻訳文」と考えることも出来る。今回は、パロディーを翻訳行為ととらえる。このことについて、最近読んだ本「翻訳行為と異文化コミュニケーション―機能主義的翻訳理論の諸相―」にある、スコポス理論をもとに考察していく。また、動画リンクを貼ったEminemのほかにも、RIP SLYMEやFlow・AAA・EXILEなどのJpopミュージシャンも引き合いに出し、主観的な考察を加える。

0.1 スコポス理論とは
スコポス理論とは、「翻訳は、目的に応じてその姿を変える」という理論である。つまり、一般の人が読みやすい訳文を作るか、その道の研究者たちが内容を知るための訳文を作るか、映画の字幕のように字数制限内で訳文をつくるかでは、同じ英文からでも全く異なった「翻訳文」ができる。この理論をもとに、先ほど挙げたミュージシャンたちの「翻訳」を“簡単に”且つ“主観的に”分析していく。

0.2本考察の構成
本考察は、著者が良いと感じたパロディーに関して、実例を挙げながらその良さについて考察していく。

1.良いパロディーその①
ここでの良いパロディーの定義は、「目的の設定が適切で且つ達成されている。また、元ネタを知っている事で、また元ネタと照らし合わせることで、その曲の深みが分かるもの」とする。所謂、「深いうた」である。
適切な目標設定とは、元ネタの表面上の意味ではなくその「エッセンス」を理解して使っている(14・17再々まとめの、1.2.2参照)ということである。
1.1.エミネム
Facebookのエミネム関連のページで、"Why is Eminem cool?"か何かの質問と、それに対する答えが書かれていた。その答えの一つに、「エミネムは日常をうたっているから」という回答があった。このmockingbirdも、日常をうたっているものと言えるだろう。大まかな内容は、「母がいない状況の娘たちに向けたもの」である。

また、この歌はある種の”パロディー”でもある。この歌のもとになっているであろう詩は、nursery rhymesの。Hush Little Baby


この詩の内容は、「お母さんが何でも買ってあげるよ」というものである。

つまりこの歌は、「何でも買ってあげる」という内容を、「娘たちに向けた励ましのメッセージ」として翻訳(改作)したものであり、元の詩が意味したことをそっくりそのまま”エミネム化”していると言えるだろう。

歌詞にある、[I'm a give you the world]に込められているであろう気持ちは、元ネタを知っていないと見えてこないかもしれない。(元ネタではさすがにworldを付与する場面はない。この点でエミネムは、元ネタの母を凌駕している)

つまり、「元ネタをも超えるほど愛している」というメッセージを伝える目的のもとに為されたパロディーであると見ることができ、それはみごとに成功しているのではないか。

1.2 RIP SLYME

RIPに関しては、以前に「Wonderful」を紹介したページ、「wopbabalubop-wopundo」を参照。


どことなく漂う昭和の香りは、元ネタの知識なくしてはなかなか味わい切れないだろう。

詳しくはしらないが、「良き古き時代を現代に」というメッセージ(?)、もしくは「今昔融合」を目的としていると言うことが出来るのではないか。だとしたら、見事に成功している。

1.3. Flow
有名なのは、「贈る言葉」。海援隊の名曲のカバーである。別れを惜しむ気持ちを隠した、男泣きをイメージさせるような歌である(ように思う)。
海援隊とFlowでは、時代が違う。
海援隊は、正に「男泣き」である。一方、Flowは、むしろ「自棄っぱち」である。
Flowは、「自棄っぱち」をかっこいいと思ったか否かは置いておいて、「男泣き」という日本の芸術を現代語訳すると「自棄」になる、と解釈したのだろう。唯一の違いは、「男泣き」は”かっこよく”て、「自棄」はみっともない、という点である。Flowがそこを分かっているのか、「自棄はかっこいい」と勘違いしているのかには触れない。

2.良いパロディーその②
ここでは、原曲がよいため、そのままカバーした曲が良いものに仕上がっている例として、AAAの「もう恋なんてしない」を挙げる。
要するに、原曲:牧原則之(マッキー)を聞けばよいというはなしではあるが、現代の若い人が古い歌を聞くためのキッカケとしては良いであろう。
つまり、「古い歌を知ってもらおう」という目的で作られた歌であり、あながち失敗はしてないと思う。

3.良いパロディーその③
ここでは、名曲を世間にもう一度広める役割をしている歌を取り上げる。
か有名な、EXILEの銀河鉄道999(笑)である。
この曲は、999の存在を世に知らしめるためだけに作られた歌である。しかし、EXILEはここに一つ付け加えをしている。「原曲の否定」である。無様にも取り入れられたラップの箇所。その意味を見てみると、

「銀河に行くのは夢ではあるが、結局俺たちは人間だから無理。じゃあせめて、このライブで銀河に飛んでいくくらいにノリまくれ!」

というふうにも取れる歌詞になっている。http://music.yahoo.co.jp/lyrics/dtl/KAA055029/AAA180952/

つまり、この曲の目的は、「過去の偉大な作品の威を借りてひと儲けしよう」ではないか。残念ながらそれは成功を収めているように思える。

これを機に、「原曲を世に知らしめる」と言うの本来の目的を思い出して、偉大な「ゴダイゴ(Godiego)」の銀河鉄道999の良さをかみしめようではないか。



追記:銀河鉄道999に関しては、以下のブログ記事で興味深いことを述べている。






日本語の語順

湯を溜めてお風呂に、おれは入る


湯を溜めておれはお風呂に入る


お風呂に湯を溜めて、おれは入る


お風呂におれは湯を溜めて入る


おれはお風呂に湯を溜めて入る


おれは湯を溜めてお風呂に入る



「入る」は最後に来るそうです


もし破ると


入るお風呂に俺は湯を溜めて…

→いまから入るべきお風呂にお湯をためてから、おれは…(以下以下のことをする)


意味がかわる


それに、なんか尻切れトンボ


…ちなみに、尻切れトンボは小三・四のとき先生に、

君の作文は尻切れトンボだ

と言われてからずっと心の隅に残ってます。

尻切れだったのか、後に『含み』を持たせる技術を持っていたのか…←前者


話がそれたついでに。
親に
「尻切れトンボ」ってなに?

って聞くと


『トンボをつかまえて、そいつの尻尾の先にに糸を結び付ける。そしたら「トンボを散歩(散飛?)」させる事ができる。でもたまにそのトンボの尻尾がちぎれて、トンボは尻がないまま飛んでいく。
それがもとなんだよ』


なんていう
かなりショッキングな遊びの話をきかされました。


尽きましては、
お風呂に行って来ます。

2011年4月13日水曜日

Dr. Dolittle(ドクター・ドリトル):動物の言語

Dr. Dolittle 2 (2001)

久しぶりに見ました。

内容に関しては、
「ドリトル先生は、動物と会話ができます。」
とだけ言っておきます。

ここからは妄想のお話。


・もし動物が言語を持っていたら?

動物は、言語を持たない(あるいはごく限られた言語しか持たない)。
というのが定説です。

ドリトル先生は動物と会話できます。
これは、「動物が言語を持っている」ということに他なりません。

私たち人間は、それをただ理解できないだけなのでは?

だとすると、人間は知らないところで恥をかいているのではないでしょうか。

例えば動物園で・・・

動物:人間って変だよな。俺たちを閉じ込めて、それを見物して楽しむなんて。あ、また人間が来た。
人間:あ、みてー、猿だ。ちょーかわいー。やばーい。
動:おいおい、何でも「やばい」で済ませるなよ。俺たちは動物の中で唯一言語を持つなんて言っときながら、使いこなせてないじゃないか。
人:あ、こっちみてるー。やばーい。ちょーやばーい。
動:いや見てないし。たまには「やばい」以外の言葉でも使ったらどうだい、このイエローモンキー。おい、聞こえてるのかクソエテ公ども。
人:やばーい。話しかけてるー。お猿さんこんにちはー。やばーい。お猿さんとお話ししちゃったー。
動:・・・・(絶句)
人:あれ、お猿さんおはなししなくなっちゃった。やっぱり人間しか言葉って使えないのかな。。。
動:・・・・・・!!!!!(絶句)


怖い怖い。信じるか信じないかはあなた次第です。www

アマゾン:Dr. Dolittle 2

wopbabalubop wopundo

RIP SLYME  「wonderful」 (2006 アルバムEPOCHより)


何となく昭和の香りが漂ってくるようなチューン。

まず曲調。
音楽の事はよくわからないけど、コード進行か何かが古い。吉田拓郎Little Richardを彷彿させる。


次に歌詞。
巨人の星をモチーフにした歌詞で「星オブ巨人」

また、先に挙げたLittle Richardtutti fruttiなどに使われた、「A-Wop-bop-a-loo-lop a-lop-bam-boo」が、「wopbabalubop wopundo」として使われている。


この昭和とRAPの見事な融合(?)までも為し得るRIPはやはり天才です



Youtube:
Little Richard: Tutti frutti

RIP SLYME: Wonderful

You and I

RIP SLYMEの歌詞の秀逸さを、私なりに言語化します。

今回は
YOU & I
の使い方について。

よくつかわれるのは、
YOU & I と 「言えない」
の韻。

なんか使い古された感じで
とてもダサいように思えます。

ところがRIPは、これにもうひと味加えます。
UNITY
とかけて使います。

「ゆう(YOU) えん(&) ない(I)」 と  「ゆう(U) えん(N) ない(I) ティーワイ(TY)」


いんを踏んでいるのはもちろん、
あなたと私で一つ(UNIT
っていうのも隠れています。

DISCO-MMUNICATION
2002)より
口で言えなくても You I
U. N. I. T. Y.

DISCO-MMUNICATION 歌詞

YOU TUBE DISCO-MMUNICATION

あなたの隣にクレーマー?むしろあなたがクレーマー?

十八冊目:あなたの隣のモンスター 斎藤孝(2008) NHK出版 生活人新書

感想
モンスターペアレンツ、モンスターペイシェント・・・いたるところにモンスターと呼ばれる人がいる。そんなモンスターに成る可能性を、誰しもが持っている。そんな「一人一人の心の中に住むモンスター」をもう一度客観的に見る本。

まとめ+私見(解釈が多く含まれている。「」内は引用。)
0.
 みんなモンスター
周りがモンスター化しているから、自分もモンスター化しやすくなっているのではないか。

1.
 一分一秒
昔は、飯屋で注文が通ってないときでも穏便に済ますことができた。しかし最近は、「サービスが全体的に向上してきた」り、「権利を過剰に主張」するようになってきたせいで、 文句が言いやすくなってきている。また、都会の一分一秒を争うような喧騒の中では、思いやりより我先に。そんな社会の中にいたら、自分の普通の基準が崩れてしまう。そんなときは、「モンスター化している状態を自認」してモンスター化を「自覚することが」大切だ。一分一秒を争うのではなく、もっとゆったりした時間の中で充実感を得よう。(一章前半)

2.
  甘えたもん勝ち・言ったもん勝ち
「最近の子どもが叱られたことが少なく、しっかり反省する回路を身につけていない」という現状。叱られ慣れていないせいか、「叱られても当然」という「規範意識」がない。自己存在はアピールしたもん勝ち。クレームは付けたもん勝ち。その裏には叱られない習慣が隠れているのではないか。(一章後半)

3.
 消えた日本人
日本において、「人前では、悲しみを包み隠すことが礼儀とされてきた」。 そのおかげで、明治維新後の「西洋的な公的空間は、当初から西洋以上にうまく機能した」。しかし、その日本人としての中身がどんどん無くなっている。それには、社会が豊かになったという背景があるのではないか。(三章)

4.
 人を追い込む社会
豊かな時代にはストレスが多い。成功したい、つまり、人に「認めてもらいたい欲求」もある。今や会社が株主のもの、消費者の物であるから、社員は少しでも減らして、安さ、便利さを追求する。仕事ができなければクビ。30代のフリーターなら不採用。昔は、仕事ができるやつができない奴の分まで働いていた。なぜなら会社が社員全員のものだったからだ。それも、社員同士に人間関係があるからこそできたことである。今はその人間関係が無くなってきている。(四章前半大約)

5
. 人は、人とのつながりの中で成長する
SNS
サイトでは、仲の良い人とだけ関わればいい。非常に楽ではあるだろうが、それは薄い人間関係である。ぶつかり合ったり、励まし合ったり、競い合ったりするような、有る意味居心地のよくない空間が、濃い人間関係である。その、濃い人間関係に浸ることで、人間は成長していけるのだ。その人間関係も、「上向きの方向性で同調し合って」いるべきだ。それぞれが向上心を持ち、お互いを高めあっていく人間関係があれば、人間は成長する。(四章・五章大約)


まとめにあたって
今回は、かなり前に読んだ本を取り出して、粗い読みをし、粗いまとめをした。自分の意見や考えも含まれているまとめになったが、「こういう読み方もあるんだな」と、それこそ穏便に済ませていただきたく思います。

ただ、明らかに本と違うことを言っている、というのがありましたら、ご指摘願います。

アマゾン:あなたの隣のモンスター