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広島大学教育学部卒業。 読書・昼寝・ゲーム・カードゲームなどを趣味とする。 RIP SLYMEが好き。宮部みゆき・東野圭吾・星新一・夏目漱石・小川洋子が好き。 最近数学・宇宙論・翻訳などに興味がある。 アニメ・声優オタ

2011年4月13日水曜日

14:翻訳はいかにすべきか

十四冊目:翻訳はいかにすべきか 岩波新書 柳瀬尚紀著

まとめ+私見
0.翻訳は細部に至る
翻訳は、細部の積み重ねでできている。全体を通して苦痛なく読める翻訳も大切だが、その細部にまでこだわってこそ、これからの翻訳の質の向上につながるのではないか。

1.翻訳は日本語である
外国文学を訳した文章とはいえ、翻訳語の文章は日本語である。いくら原文の単語の意味を一つ一つ忠実に訳しても、日本語としておかしいものは「翻訳文」としてもおかしい。ここでは、おかしい日本語を生み出してしまう要因を3点述べる。
1.1時制
言語によって、時制についての感覚はことなる。英語なら英語の、日本語なら日本語の時制の感覚がある。原文と翻訳文の時制を無理やりに合わせようものなら、不自然な翻訳文が出来上がってしまう。
1.2省略
日本語は、主語・目的語・所有格などをよく省略する言語である。翻訳においても、これらをすべてを訳出する必要はない。『彼は、彼のかばんを彼の肩にかけて出て行った』という風な直訳の文を見たことはあると思う。この文の「彼」をすべて消すと、『かばんを肩にかけ、出て行った』となる。前後の文脈さえあれば、「誰が・誰の」は言わずとも分かる。それに何より、日本語らしい。
1.3身体の捉え方
言語間において、身体の部分の捉え方が異なる場合がある。例えば、「鼻」に関して。日本では、人間にも象に「鼻」がある。しかし英語では、人間の鼻はnoze、象の鼻はtrunkである。このような感覚の違いを知らずにいると、思わぬところで変な日本語に出くわすことになる。


2.粗漏と精細
翻訳には、精細さが求められる。これを欠くと、「誤訳・訳殺」を招くことになる。誤訳とは「訳し間違い」、訳殺とは「直訳は出来ているが、原文の良さ・原文の裏の意味を上手く訳出できていないこと」を言う。もちろん、言語を変える以上、100%同じものを作ることはできない。しかしそれでも、可能な限り原作の持つ本質を移そうとするべきである。以下に、誤訳・訳殺の要因となるものを3点にまとめる。
2.1固有名詞
人や物の名前を訳す時、その「読み」をカタカナにすることがある。例えば「アリス」。これは問題ないだろう。しかし仮に「ビッグ・フット・ジョン」などという訳があるとしよう。これは問題である。日本語しか分からない人にとっては、原文でなら得られたであろう「ジョンの足は大きい」という情報が無くなっているからである。
2.2名詞
1.3でも挙げたように、名詞の指し示す範囲は、言語によってまちまちである。したがって、辞書の一番最初にある意味を書き写しただけでは辻褄が合わなくなることがある。有名なのが「lip」である。lipは、「唇」だけでなく、「口周り」もさすことがある。つまり、lipに「ひげ」が生えることが可能なのだ。
2.3語彙
2.2でもふれたが、辞書に載っている意味を書き写すだけではしっくりこない場合がある。次の二文を見比べてみよう。「わたの詰め物をしたクッション」、「ふわふわのクッション」。同じ「綿をつめた」クッションでも、前者は硬そうで、後者は柔らかそうではないか。もし「柔らかさ」を出したいのであれば、「綿の詰め物をした・・・」という直訳文は、「ふわふわの・・・」という翻訳文に直さなければいけない。

3.翻訳の姿勢
翻訳にあたって、心得ておくべき点がある。以下に三点にまとめる。
3.1精読
翻訳は、極限の精読である。一つとして「読み過ごし」があってはいけない。なぜなら、「読めていない個所は翻訳出来ないから」である。また、その作品から受ける感動・悲しみなどの感情も、すべて表現しなければならない。そのためには、その感動を味わわなければならない。つまり、翻訳する作品は、「究極の精読をした作品」であり、「心を動かされた作品」でなければならない。
3.2日本語にする
原文を大切にするのはもちろんだが、大切にしすぎて日本語がおかしくなってしまっては本末転倒である。これには、先に述べたような「省略」も必要である。日本語と外国語の違いも知らなければならない。原文に代名詞があるからと言って、日本語にも代名詞を付ける必要はない。そのような「省略」は、「粗漏ではない」。原文にある「文字」を漏らさず訳すのではなく、原文の「本質」を日本語に移し替えるのである。
3.3注釈を付けない
翻訳は、原文の持つ意味・内容・ユーモアなどをすべて含んでいる必要がある。つまり、そこに注釈を用いる必要はない。何が何でも、翻訳文にすべてをつぎ込むのである。この時、新語・造語を用いる必要もあるかもしれない。原文では「リンゴ」でも、「韻」などの関係から「バナナ」になってしまうかもしれない。このように「言葉を曲げてでも」原文から読み取れる「本質」を日本語で再現しなければならない。
本書より例
原文:Madam, I'm Adam(回文)
翻訳:はい、アダムだ。マダムだ、愛は。(回文:はいあだむだまだむだあいは)



感想:今までは「翻訳=読みにくいもの」というレッテルを張っていた。しかし、考え改めなければならない。また、受験英語:和文英訳といった「学校英語」の弊害がここに見られるような気がする。「私は・彼は」を付けなければ「ぺけ」を貰ってしまうという制度は、いささか問題ではないか。これからの英語教育に、新しく「翻訳」という一面を取り入れる必要も、あるかもしれない。もしかしたら、ないかもしれない。



アマゾン:翻訳はいかにすべきか

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