書評(というか感想)、日ごろ思ったことなどを、思うままに書いていくメモ帳的なブログ。いつかこれを見返して、何か自分の中に再生産されるようなメモ帳になればいいなと思います。
自己紹介
- ironustak
- 広島大学教育学部卒業。 読書・昼寝・ゲーム・カードゲームなどを趣味とする。 RIP SLYMEが好き。宮部みゆき・東野圭吾・星新一・夏目漱石・小川洋子が好き。 最近数学・宇宙論・翻訳などに興味がある。 アニメ・声優オタ
2011年4月30日土曜日
最高の人生の見つけ方
・あらすじ
余命半年を宣告された二人が、
残りの人生をめいっぱい楽しもうと、
二人して旅に出るお話し。
・映画を見終えて
少し本筋とはずれますが、
「銀も金も玉も何せむに、優れる宝子にしかめやも」
(山上憶良/やまのうえのおくら)
この句がふっと浮かぶ内容。
いつかこの句の意味をかみしめれるようになりたいなと思います。
おじいさんになっても、粋な人生を送り続けたいと思います。
2011年4月28日木曜日
Drink up me hearties yo-ho
2011年4月27日水曜日
読書の愉悦を次世代に
2011年4月26日火曜日
RIP SLYME 官能小説
2011年4月25日月曜日
事件はどこで起きているのか
普段聞こえないもの
2011年4月23日土曜日
文学論としての小説の書き方
2011年4月22日金曜日
『「いただきます」を忘れた日本人』
Schneewittchen→Snow White
2011年4月21日木曜日
ご都合主義的現実感
2011年4月20日水曜日
藤濤 文子(2007)『翻訳行為と異文化コミュニケーション』
『翻訳行為と異文化コミュニケーション―機能主義的翻訳理論の諸相―』 松籟社
このまとめは、大きく3つのセクションで構成されている。(1)においては、本書で扱われている用語の説明をする。(2)では本書で行われている訳文分析のa)概要と、b)分析結果を示す。(3)では、この本の結論を、主に本書からの引用でまとめている。
なお、文中に出てくる「ST」と「TT」とはそれぞれ、「Source Text(起点テクスト:翻訳前)」・「Target Text(目標テクスト:翻訳後)」を示す。
0. 本書のアプローチ
本書は「機能主義的翻訳理論」の立場をとって、翻訳を「異文化コミュニケーション行為」として捉えている。また翻訳に影響を与える要因を「言語の差」・「文化の差」・「コミュニケーション状況」という3つの観点に分け、実際の翻訳の比較・分析を通して考察している。
1. 機能主義的翻訳理論とは:1・2章
翻訳を機能主義的に捉えることの意義は、「何のために、誰に対して、どのように、どの媒体で、といった翻訳行為を取り巻くコミュニケーション状況を自明のこととはせず、むしろそれこそが、そのように情報提供するかと言う翻訳行為を決定する要因とみなすがゆえに、翻訳の様々な現象が説明可能になるという点にある。」(p.34) つまり、今まで当たり前とされてきた“同じ原文から違う翻訳が生まれること”に焦点を当てて説明するものが「機能主義的翻訳理論」なのである。この理論は、以下の二つの理論を軸にしている。
1.1. テクストタイプ別翻訳理論(Reiß 1971, 1976)
このテクストタイプ別翻訳理論は、「あらゆるジャンルの翻訳の批評に用いることのできる基準を打ち立てる試み」(下線筆者)である(p.19)。具体的には、ジャンル別ではなく、言語が文章中で持つ主な機能を重視した理論である。
ビューラー(Bühler 1934)によると、言語は同時に3つの機能を果たすという。それは、①言語と対象との関連による「叙述機能」②言語と送り手との関連による「表出機能」③言語と受け手との関連による「訴え機能」である(p..19)。この理論を応用し、ライスはテクストを三種類に分けた。一つ目は、「情報型テクスト」、二つ目は、「表現型テクスト」、三つ目は、受け手に訴え、何らかの効力を与える意味で「効力型テクスト」である(p.21)。
ライスの翻訳理論への貢献は、「翻訳ではSTの持つ3つの機能の全てを再現できない」ならば、「せめて重要な機能だけでも再現させよう」という翻訳のあり方を示した点にある。(p.24-25)
1.2. スコポス理論(Vermeer 1978, Reiß/Vermeer 1984)
スコポス(目的)理論とは、翻訳は「TTが、どのような目的で必要とされているのか」によって左右されるという理論である。(p.29) つまり、読みやすい翻訳をするのか、原文に忠実な翻訳をするのか、という目的次第で、同じ英文からでも全く違う翻訳が出来ることを示している。フェアメーアは、「翻訳行為で最も重要なのはこの目的」であり、「翻訳でなすべきことは(中略)翻訳読者との新たなコミュニケーションを成功させることだ」と考えている。つまり、「STを介したコミュニケーションとは異なった存在意義」をTTに求めたのである。(p.26)
2. 翻訳の多様性とその要因
ここでは、3・4・5・6章を順にまとめていく。3章では、固有名詞の翻訳における多様性から翻訳の多様性を示し、続く4・5・6章では、翻訳に影響を与える要因:「言語の差」・「文化の差」・「コミュニケーション状況」を実例から分析している。
2.1. 固有名詞の翻訳:3章
固有名詞の翻訳では、「綴りや音をなぞるという方法をとるのが一般的」であると考えられがちだが、「意味的側面が価値を持つ場合もあり、翻訳する際に音を重視するか意味を優先するかの選択を迫られたり」もする。(p.45-46)「限定的な訳しか許されないと思われる固有名詞においても、様々な訳出がなされている」ということから、「翻訳と言う行為における訳語選択の多様な可能性」を示唆している。(p.66)
2.2. 言語差が与える影響:4章
a) 概要
異なる言語間において、語彙や文法は必ずしも一対一に対応しない。ここでは、名詞の単数・複数という数の文法に絞り、「言語の違いが翻訳でどのような現象を生むのか」、「その差を埋めるにはどのような方法があるのか」について、村上春樹の『ノルウェーの森』(1984)第一章の英訳・独訳における、普通名詞の訳し方から分析している。(p.70-71)
b) 著者による分析の結果
数の文法カテゴリーを持つ英語・ドイツ語においても、翻訳者の捉え方・解釈の仕方によっては「不加算名詞」や「合成語」などを使うことで、数の文法の束縛をまぬがれることができる。(p.81-82) つまり、「二言語間に数の文法的カテゴリーというラングレベルの差があるといっても、個々のパロールレベルにおいてはその差が必ずしも絶対的な影響力を持つとは限ら」ず、(下線筆者)「単複の区別を明示的に表示するかどうかは、翻訳者の捉え方をしなやかに反映するものである」と言える。(p.84-85) このように、訳者が「どのような見地に立つかで訳文が変わるのであれば、機能主義的に翻訳をみるマクロレベルの視点が必要」になるだろう、というのがこの章の見解である。(p.93)
2.3. 文化差が与える影響:5章
a) 概要
言語の差異に加え、文化の差異も翻訳に影響する。本章では、吉本ばなな著『キッチン』他のドイツ語訳と英語訳を比較・分析している。ドイツ語訳では「注」が付けられているのに対して、英語訳ではそれがまったくない。その違いの分析を行うことで、文化差が翻訳にどんな影響を与え、実際のTTにどのように現れるかを明らかにし、文化の翻訳における多様性を浮き彫りにする。(p.95-96)
b) 著者による分析の結果
ドイツ語訳は、注を付けることで「イメージ」を正確に伝える反面、「読みやすさ」が犠牲になっている。(p.105) また、「日本の若者のライフスタイルや文化を積極的に紹介」しようとする翻訳者の意図が読み取れる。(p.108) 一方の英語訳は、「異文化要素をなるべく既知の要素を手がかりにしながら読者に提供することを優先し」ていて、「正確なイメージ」よりも「コミュニケーション」が成立することを目的としている。(p.105) つまり、翻訳のあり方の違いは、「どのような翻訳を志向するのか」という違いから来ている。翻訳の目的(スコポスルール)が結束性ルールよりも重要であることが、ここでも確認できる。(p.113)
2.4. コミュニケーション状況が与える影響:6章
a) 概要
一つのSTからでも、様々なTTが成立する。それは、翻訳家たちの解釈の違い・時代の変遷などの、「コミュニケーション状況」・「翻訳行為における目的」に起因する。(p.115) 本章では特に、「媒体の異なるコミュニケーション」として、「映像翻訳」を考え、分析する。(p.116)
b) 著者による分析の結果
映像翻訳においては、「言語間の変更」以外にも、「音声から文字」という、「二重レベルの変換操作が同時に行われる」。また、「映像」や「音」などは、STがそのまま使われる。これは、「書物の翻訳ではありえないこと」である。(p.118-119) また、字幕には、「字数・時間制限」があり、「読み返し・中断」が出来ない。この時訳者は、「省いてよい言葉を取捨選択する」という、「取捨選択能力」が問われる。(p.121) このように「字幕翻訳」は、「顧客にわかる字幕」を作ることが目的であり、したがって「原文至上主義」の立場からの批判は不適切である。(p.130)
3. 異文化コミュニケーションとしての翻訳:7・8章
「STとTTの間にずれが生じるのはある程度必然的である。あるいはそのようなずれは異文化コミュニケーション行為を成功させるために取られた選択行為の結果であると表現することもできよう。」(p.137) 例えば、「形式的側面を重視した翻訳」では「結束性」が問題になり、「自然な理解を目指した翻訳」では「忠実性とのバランス」が問題となる。(p.152) このように訳文分析をしていくことは、「異文化コミュニケーションの現場で何が起こっているかを具体的に見ていき、異文化理解の現状を明らかにするための有効な手段」である。(p.153) この分析に用いたスコポス理論は、翻訳をSTとの関係から見るのではなく、コミュニケーション行為として見る理論である。(p.156)
翻訳に影響を与える要因は、2で挙げた三点とのほかに、「翻訳者」の介入がある。(p.155)このことに関して、著者はこの本の締めくくりをこう書いている。
「翻訳者の介入のないテクストはない(中略)翻訳者がたとえ限りなく黒子に徹する場合であっても、それはそのように「意図」したものであるということを強調しておきたい。」(p.164)
2011年4月17日日曜日
クイズ From Youtube
2011年4月15日金曜日
Hush Little Baby~パロディーと翻訳~
0.パロディーと翻訳
追記:銀河鉄道999に関しては、以下のブログ記事で興味深いことを述べている。
日本語の語順
湯を溜めておれはお風呂に入る
お風呂に湯を溜めて、おれは入る
お風呂におれは湯を溜めて入る
おれはお風呂に湯を溜めて入る
おれは湯を溜めてお風呂に入る
「入る」は最後に来るそうです
もし破ると
入るお風呂に俺は湯を溜めて…
→いまから入るべきお風呂にお湯をためてから、おれは…(以下以下のことをする)
意味がかわる
それに、なんか尻切れトンボ
…ちなみに、尻切れトンボは小三・四のとき先生に、
君の作文は尻切れトンボだ
と言われてからずっと心の隅に残ってます。
尻切れだったのか、後に『含み』を持たせる技術を持っていたのか…←前者
話がそれたついでに。
親に
「尻切れトンボ」ってなに?
って聞くと
『トンボをつかまえて、そいつの尻尾の先にに糸を結び付ける。そしたら「トンボを散歩(散飛?)」させる事ができる。でもたまにそのトンボの尻尾がちぎれて、トンボは尻がないまま飛んでいく。
それがもとなんだよ』
なんていう
かなりショッキングな遊びの話をきかされました。
尽きましては、
お風呂に行って来ます。
2011年4月13日水曜日
Dr. Dolittle(ドクター・ドリトル):動物の言語
Dr. Dolittle 2 (2001)
久しぶりに見ました。
内容に関しては、
「ドリトル先生は、動物と会話ができます。」
とだけ言っておきます。
ここからは妄想のお話。
・もし動物が言語を持っていたら?
動物は、言語を持たない(あるいはごく限られた言語しか持たない)。
というのが定説です。
ドリトル先生は動物と会話できます。
これは、「動物が言語を持っている」ということに他なりません。
私たち人間は、それをただ理解できないだけなのでは?
だとすると、人間は知らないところで恥をかいているのではないでしょうか。
例えば動物園で・・・
動物:人間って変だよな。俺たちを閉じ込めて、それを見物して楽しむなんて。あ、また人間が来た。
人間:あ、みてー、猿だ―。ちょーかわいー。やばーい。
動:おいおい、何でも「やばい」で済ませるなよ。”俺たちは動物の中で唯一言語を持つ”なんて言っときながら、使いこなせてないじゃないか。
人:あ、こっちみてるー。やばーい。ちょーやばーい。
動:いや見てないし。たまには「やばい」以外の言葉でも使ったらどうだい、このイエローモンキー。おい、聞こえてるのかクソエテ公ども。
人:やばーい。話しかけてるー。お猿さんこんにちはー。やばーい。お猿さんとお話ししちゃったー。
動:・・・・(絶句)
人:あれ、お猿さんおはなししなくなっちゃった。やっぱり人間しか言葉って使えないのかな。。。
動:・・・・・・!!!!!(絶句)
怖い怖い。信じるか信じないかはあなた次第です。www
アマゾン:Dr. Dolittle 2
wopbabalubop wopundo
RIP SLYME 「wonderful」 (2006年 アルバムEPOCHより)
何となく昭和の香りが漂ってくるようなチューン。
まず曲調。
音楽の事はよくわからないけど、“コード進行”か何かが古い。吉田拓郎・Little Richardを彷彿させる。
次に歌詞。
”巨人の星”をモチーフにした歌詞で「星オブ巨人」
また、先に挙げたLittle Richardのtutti fruttiなどに使われた、「A-Wop-bop-a-loo-lop a-lop-bam-boo」が、「wopbabalubop wopundo」として使われている。
この昭和とRAPの見事な融合(?)までも為し得るRIPはやはり天才です
。
Youtube:
Little Richard: Tutti frutti
RIP SLYME: Wonderful
You and I
RIP SLYMEの歌詞の秀逸さを、私なりに言語化します。
今回は
「YOU & I」
の使い方について。
よくつかわれるのは、
「YOU & I」 と 「言えない」
の韻。
なんか使い古された感じで
とてもダサいように思えます。
ところがRIPは、これにもうひと味加えます。
「UNITY」
とかけて使います。
「ゆう(YOU) えん(&) ない(I)」 と 「ゆう(U) えん(N) ない(I) ティーワイ(TY)」
いんを踏んでいるのはもちろん、
あなたと私で一つ(UNIT)
っていうのも隠れています。
DISCO-MMUNICATION(2002)より
口で言えなくても You & I
U. N. I. T. Y.
DISCO-MMUNICATION 歌詞
YOU TUBE DISCO-MMUNICATION
あなたの隣にクレーマー?むしろあなたがクレーマー?
十八冊目:あなたの隣の≪モンスター≫ 斎藤孝(2008) NHK出版 生活人新書
感想
モンスターペアレンツ、モンスターペイシェント・・・いたるところにモンスターと呼ばれる人がいる。そんなモンスターに成る可能性を、誰しもが持っている。そんな「一人一人の心の中に住むモンスター」をもう一度客観的に見る本。
まとめ+私見(解釈が多く含まれている。「」内は引用。)
0. みんなモンスター
周りがモンスター化しているから、自分もモンスター化しやすくなっているのではないか。
1. 一分一秒
昔は、飯屋で注文が通ってないときでも穏便に済ますことができた。しかし最近は、「サービスが全体的に向上してきた」り、「権利を過剰に主張」するようになってきたせいで、 文句が言いやすくなってきている。また、都会の一分一秒を争うような喧騒の中では、思いやりより我先に。そんな社会の中にいたら、自分の”普通”の基準が崩れてしまう。そんなときは、「モンスター化している状態を自認」してモンスター化を「自覚することが」大切だ。一分一秒を争うのではなく、もっとゆったりした時間の中で充実感を得よう。(一章前半)
2. 甘えたもん勝ち・言ったもん勝ち
「最近の子どもが叱られたことが少なく、しっかり反省する回路を身につけていない」という現状。叱られ慣れていないせいか、「叱られても当然」という「規範意識」がない。自己存在はアピールしたもん勝ち。クレームは付けたもん勝ち。その裏には叱られない習慣が隠れているのではないか。(一章後半)
3. 消えた日本人
日本において、「人前では、悲しみを包み隠すことが礼儀とされてきた」。 そのおかげで、明治維新後の「西洋的な公的空間は、当初から西洋以上にうまく機能した」。しかし、その日本人としての中身がどんどん無くなっている。それには、社会が豊かになったという背景があるのではないか。(三章)
4. 人を追い込む社会
豊かな時代にはストレスが多い。成功したい、つまり、人に「認めてもらいたい欲求」もある。今や会社が株主のもの、消費者の物であるから、社員は少しでも減らして、安さ、便利さを追求する。仕事ができなければクビ。30代のフリーターなら不採用。昔は、仕事ができるやつができない奴の分まで働いていた。なぜなら会社が社員全員のものだったからだ。それも、社員同士に人間関係があるからこそできたことである。今はその人間関係が無くなってきている。(四章前半大約)
5. 人は、人とのつながりの中で成長する
SNSサイトでは、仲の良い人とだけ関わればいい。非常に楽ではあるだろうが、それは薄い人間関係である。ぶつかり合ったり、励まし合ったり、競い合ったりするような、有る意味居心地のよくない空間が、濃い人間関係である。その、濃い人間関係に浸ることで、人間は成長していけるのだ。その人間関係も、「上向きの方向性で同調し合って」いるべきだ。それぞれが向上心を持ち、お互いを高めあっていく人間関係があれば、人間は成長する。(四章・五章大約)
まとめにあたって
今回は、かなり前に読んだ本を取り出して、粗い読みをし、粗いまとめをした。自分の意見や考えも含まれている”まとめ”になったが、「こういう読み方もあるんだな」と、それこそ穏便に済ませていただきたく思います。
ただ、明らかに本と違うことを言っている、というのがありましたら、ご指摘願います。
アマゾン:あなたの隣の≪モンスター≫