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広島大学教育学部卒業。 読書・昼寝・ゲーム・カードゲームなどを趣味とする。 RIP SLYMEが好き。宮部みゆき・東野圭吾・星新一・夏目漱石・小川洋子が好き。 最近数学・宇宙論・翻訳などに興味がある。 アニメ・声優オタ

2011年4月13日水曜日

14 & 17 再まとめ

翻訳はいかにすべきか 柳瀬尚紀著:翻訳のココロ 鴻巣友季子著 まとめ

の本は、翻訳にあたって注意することを書いている。の本は、翻訳を様々なこと(日常生活・武道など)になぞらえて、翻訳の性質を帰納的に見出すことを目的とした本である。二冊の本から読み取ったことを、三項目にまとめて以下に示す。

1.翻訳は細部に至る

翻訳は、細部の積み重ねである。細部にこだわり、原文の意味するところを100%移し得たものが翻訳である。もちろん、言語を変える以上、100%同じものを作ることはできない。しかしそれでも、可能な限り原作の持つ本質を移そうとするべきである。これを怠れば、「誤訳・訳殺」を招いてしまう。つまり、「訳し間違い」や「直訳は出来ているが、原文の良さ・原文の本質を上手く訳出できていない」という要素を含んだ「翻訳文(直訳文)」になってしまう。

1.1.細部に至る「読み」精読

翻訳は、極限の精読である。一つとして「読み過ごし」があってはいけない。なぜなら、「読めていない個所は翻訳出来ないから」である。また、「作品の構成」・「その作品から受ける感動・悲しみなどの感情」も、すべて表現しなければならない。そのためには、作品を細部まで読み込み、その感動を味わわなければならない。つまり、翻訳する作品は、「究極の精読をした作品」であり、「心を動かされた作品」でなければならない。


1.2.翻訳と原文の関係

翻訳には必ず原文がある。翻訳は、原文を翻訳文に書き換える作業である。この「翻訳と原文(原典)の関係」と、「翻訳までの過程」をそれぞれ、「合気道」・「彫刻」になぞらえて説明する。

1.2.1.合気道における「原典」と「翻訳」

翻訳を合気道にたとえたとき、原典と翻訳文はそれぞれ「相手の力」と「演武」に置き換えることができる。合気道の演武では、相手の力を100%自分のものにして「技」を繰り出す。そこに自分の力は加わっていない。翻訳においても、原文のエッセンスを100%活かして日本語にし、そこに訳者の無理な解釈は入っていない。そして両者とも、上達によって得られるのは強さではなく「美しさと正確さ」である。

1.2.2.彫刻における「原典」と「翻訳」
ミケランジェロが言うには、「石を彫って作るのではない。石がもう形を持っているので、それを彫り出してやる」のだそうだ。つまり、原典は「石」であり、石がもつ形をそのまま取り出した「彫刻」が翻訳文である。原文から「エッセンス」を取り出す、これが翻訳である。何か作ったり付けたしたりするのではなく、原文が最も伝えようとしている事を、あるがままに取り出す。あえて回りくどい言い方をしているならその通りに、韻を踏んでいるならその通りに、ジョークならその通りに訳す。この、「余計なことは何もしない」というのが難しい。

2.翻訳における取捨選択

細部に注意して100%移すのは、翻訳の理想の形ではあるけれど、言語を変える実際の翻訳においては「移しきれない」点も出てくる。そこで重要になってくるのが、「取捨選択」

である。翻訳においては、「何を訳すか」以上にむしろ、「何を犠牲にするか」が重要である。翻訳は「エッセンス」を取り出すものだと言った。エッセンスとは、韻文ならその「韻律」、ジョークならその「ジョーク」などの、「一番読まれたがっている部分」である。原文の持つ意味・内容・ユーモアなどは、何が何でも翻訳文につぎ込まなくてはいけない。つまり、何かを犠牲にしてでも、言葉を曲げてでもエッセンスは取り入れなければならない。

2.1.書かれてある内容を曲げる

内容を曲げてしまっては元も子もないような気がするが、翻訳においては必要な場合がある。それは、「韻律詩」や「ジョーク」、「暗号」などを翻訳するときである。例えば韻律詩。何より重要な「韻」を活かすためには「りんご」と書かれていたものも「バナナ」としなければならないこともある。

2.2.翻訳に使う言語を曲げる

要するに、「新語・造語」をつくる、また「辞書にない訳をする」ことである。これらは、原語の新語・造語の訳においてはもちろん、原語の特徴的な言い回しを表す時に使う必要があるだろう。例えば日本語の、「りんごのように赤い」は、翻訳文では「りんごのような色」という風に、その国の文化圏で理解できるような訳語をあてはめなければならない。

2.3.メッセージを曲げる

同じ原作からでも「読み方・受け取り方・訳し方」によっては様々な「翻訳」が得られることになる。読み方・受け取り方は、人間の価値観の違い・それまでに出版された「文学作品」などが影響するため、時代を経るごとに変わってくるだろう。ここでのエッセンス(メッセージ)は、「時代が欲している部分」とも言いかえることができる。つまり、時代によって訳が変わることもある。もちろん、不必要なバイアスをかけて訳すのではなく、「そういう読みも可能だ」という範囲においての話である。

3.日本語としての翻訳
外国文学を訳した文章とはいえ、翻訳語の文章は日本語である。いくら原文の単語の意味を一つ一つ忠実に訳しても、日本語としておかしいものは「翻訳文」としてもおかしい。原文を大切にするのはもちろんだが、大切にしすぎて日本語がおかしくなってしまっては本末転倒である。日本語と外国語の違い・文化の違いも知らなければならない。原文に代名詞があるからと言って、日本語にも代名詞を付ける必要はない。そのような「省略」は、「粗漏ではない」。原文にある「文字」を漏らさず訳すのではなく、原文の「本質」を日本語に移し替えるのである。ここでは、おかしい日本語を生み出してしまう要因を3点述べる。
3.1時制
言語によって、時制についての感覚はことなる。英語なら英語の、日本語なら日本語の時制の感覚がある。原文と翻訳文の時制を無理やりに合わせようものなら、不自然な翻訳文が出来上がってしまう。
3.2省略
日本語は、主語・目的語・所有格などをよく省略する言語である。翻訳においても、これらすべてを訳出する必要はない。『彼は、彼のかばんを彼の肩にかけて出て行った』という風な直訳の文を見たことはあると思う。この文の「彼」をすべて消すと、『かばんを肩にかけ、出て行った』となる。前後の文脈さえあれば、「誰が・誰の」は言わずとも分かる。それに何より、日本語らしい。
3.3身体の捉え方
言語間において、身体の部分の捉え方が異なる場合がある。例えば、「鼻」に関して。日本では、人間にも象に「鼻」がある。しかし英語では、人間の鼻はnoze、象の鼻はtrunkである。このような感覚の違いを知らずにいると、思わぬところで変な日本語に出くわすことになる。

最後に.翻訳における二倍の楽しみ
翻訳は、言語を変えたり、「解釈・取捨選択」等を通したりしてつくられる。このことから「翻訳文」は、それだけで独立した一つの作品であるということが分かる。つまり、翻訳文を読むということは、「原典とその翻訳過程」という二倍の楽しみを得ることに等しい。

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