0. 本まとめに関して
このまとめは、大まかな内容を提示するのが目的である。そのため、本書は十二の章から成るのだが、本まとめにおいては大きく3つにまとめて提示する。その結果として、本書で扱われている通りの順番とは前後する箇所が多くある。
1. 何をどう書けばよいのか
まず最初に、小説を書くと言う事の大前提に触れていく。
1.1. 書きたいことをモチーフに
まず書きたいことが無ければ、文章を書くことが出来ない。ただしここで必要なのは、「書きたいこと」であり、「書きたいもの」ではない。「書きたいものとしてだけで書くのであれば、ただのお話にしかならない。」「書きたいこと」という、「作者の心―精神に根ざしたものであってこそ、創作衝動」が力を発揮するのである。(p.54)
1.2. 話すように書くな
“話すように書く”と言うのは、“緊張しすぎるな”という意味も込められているのであろうが、それでもやはり「文章というものは、緊張しすぎず、字句の選択に拘泥りすぎていじけることなく、〈書くように書く〉べきだろう。」(p.226) と、著者は述べている。書くように書くとはもっと具体的にどういう事なのか。これに関しては、第2・3章の「文章の呼吸」・「作品の育て方」を参照する。
1.2.1. 文章の呼吸
良い文章は、脈を打つ。つまり、「文章から文章が生みだされ、自由に展開して行っている」ものが良い文章であり、そのつながりが文章の呼吸である。(p.36) どれが正常でどれが異常かを知るには、「健康な脈搏に触れて、その感じを体得するしかない。」(p.33)
1.2.2. 作品の育て方
本書では谷崎潤一郎の言葉を引用しているた。ここにも、仮名遣いを改めて引用する。「既に生物である以上それはそれ自身に於いて統一された完全なものであり、部分は全体を含み全体は部分を含まねばならない。部分が成り立つと同時に全体が成り立ち、全体が成り立つと同時に部分が成り立つ。」(p.39) 要するに、全体の均衡が大事という事である。つまり、小説のどの箇所を取っても、そこに全体への貢献が見られなければならず、小説のどの個所を取っても全体からの影響が無ければならない。未完の文学が存在するのは、この均衡のためである。
2. 小説の構造
ここでは、小説の書き方・構成に用いる技法・虚構の種類、の三点について書く。
2.1. 始め方と終わり方
先の1.2.2で述べたように、部分と全体はお互いに均衡していなければならない。そのことは、導入・結びに関しても同じことが言える。
2.1.1. はじめ方
良い作品の導入には、「その作品の気配が早くも感じられている」ものである(p.120) それは登山の技術になぞらえるなら、「ザイルの最初のロックハーケンをどこに、どう確実に打ち込むか。そのむずかしさ、重用さ、そして、その巧拙が以後の行動に」多大に影響していく。(p.127)
2.1.2. 終わり方
本書では、まず、「どこで終わらすかを先ず決める」事が重要であると説く。その「どこ」を見分けるには、「少し手前で終わらせようとしてみることである。(中略)更に手前にすることもできそうではないか、と考えてゆけば、恰好の〈どこで〉に気のつくものである。」(p.139) これは、作品の余韻・余白を意識するのではない。早めに作品を終わらせることで、「文学的エネルギー」の「真横への噴出が作者に実感される。」(p.136) “句切れ”・“歯切れ”がよいということではなかろうか。
2.2. 筋と構成
筋と構成はよく同一のものとして考えられるが、別物である。筋とは、「人生そのもの」にも見られるため、自然主義系・私小説系・人生派小説と大きく結びついているようなものである。(p.151-152) では構成とは何か。それに関して、以下に二点に分けて書く。
2.2.1. 描写と視点
ここでは、「単元描写」・「複元描写」に触れる。「単元描写(一元描写)は常に作中人物の一人の視点による描写の方法」であり、「複元描写(多元描写)とは二人以上の人物の視線を用いる方法である。」(p.187) ここでおのずと問題になるのが、「人称」である。一人称と単元描写は関わりが強い。また、一人称では「自分の頸筋」を書くことが出来ない。(p.174) また三人称では、「嫌でも(中略)客観的な選択が強いられ」る。(p.186) 二人称の形は、「特異」であるとして省略している。(p.172)
2.2.2. 伏線
「〈伏線〉という言葉をたとえば広辞苑(初版)で見ると(中略)どうも〈筋〉との関係づけで考えられているようである。(中略)〈伏線〉に当たる英語は〈foreshadowing〉(中略)〈前表すること。前兆たること。〉」であり、この漠然と先を見通す感じこそが「伏線」である。(p.201)
2.3. 虚構
虚構には、「フィクション」と「変装」とがある。どちらとも、「隠す方法」ではあるがその「隠す」という行為を通して、「変装が自分の隠し」ている反面、「フィクションはより自分を現す」ものである。(p.199) つまり、「変装」とは、作者が別人として小説にあらわれるという「隠す」行為である。それに対して「フィクション」は、「自分を隠せば隠すほど」に「より深く、より鋭く、自分を現すことができる」のである。ここで現すものは「自分の事実を超えた自分の本質」である。(p.199)
3. 文章の書き方
ここでは、動詞と、精神的種族保存拡大という概念に関して書く。
3.1. 形容詞を含む動詞
著者は、「動詞には単なる同市ではなく、形容の要素を含んでいるものが実に多い」と言う。例えば、「撫でる」。これは、「表面をてのひらでやさしくさする」の意味であり、そこにはすでに「やさしく」という形容詞(副詞)が入っている。(p.218) つまり、「やさしく撫でた」というのはあまりよろしくない。些細なことのようだが、音楽においても「小さな音ひとつでも何気なく出たものであってはいけない、一音一音創らなくてはならない」というように、細部に至る表現が求められる。(p.219)
3.2. 精神的種族保存拡大
精神的種族保存拡大とは、要するに、他人への理解を求める姿勢の事である。「精神的種族」とは、言わば“思想・考え”である。それを他人との共感の中に「保存」する事、そしてそれを色んな人に共感してもらうという「拡大」を目的とする行為である。本書では、「地球の断面のよう」という比喩を用いて説明してある。「地球の断面のよう」という比喩は、はっきり言って共感しがたい。これを「読者に分かられ」るためには、「地球の断面とはこのようなものではないだろうか」と直す一工夫が必要である。(p.222)
とても魅力的な記事でした。
返信削除また遊びにきます。
ありがとうございます!!