15冊目:おしまいの日 新潮文庫 新井素子著
アマゾン:おしまいの日
著者曰く、この作品は一言で言うと
「春さんは、今日も帰ってこない」
―あとがきより―
という内容であるらしい。
ひとめあなたに(同著者)にも見られるような、
何が狂っていて、何が正しくて、何が本当で、何が嘘で、どっちが現実で、どっちが妄想で、誰が悪くて、誰に・何の責任があるのか。
分からなくなって、おかしくなって、おかしくなったのが分からなくなっていく。
空っぽの人間、「純粋な」人間の、「純粋な」感情。あまりにも純粋すぎる感情が人間を食いつぶしていくような・・・
・・・いつかこの感じを表現できる日本語能力を身につけたい。
そんな人間のおぞましさとか「怖さ」を書いたサイコ・ホラー小説(?)
読んでいてふと思ったこと:
人間は、偽善者であるべきだ。善・悪といった「絶対的なもの」を求めすぎると、おかしくなってしまう。偽善者という、「相対善」を与えることができる人間に成れたら、世の中ももう少し楽に、「健全に」生きられる気がする。何事も、適度に。過ぎたるは及ばざるが如し。
※ironustakの語彙の定義(主観に基づく)
善:自分の意思に基づいた、相手「だけ」の為の行い
偽善: 自分の意思・欲に基づいた、相手のため「でもある」行い
上の定義から、現実的に「善」は不可能である。なぜなら、自分の意思に基づく行為はすべて、自分の為の行為でもあるからである。人間の行為はすべて、自らの「しよう・したい」という「欲」を満たすための行為であるからだ。また、無意識の行動には、無意識の「意思・欲」がある。 よって、世の中一般に「善行」と呼ばれるものは押し並べて、「偽善」である。
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