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広島大学教育学部卒業。 読書・昼寝・ゲーム・カードゲームなどを趣味とする。 RIP SLYMEが好き。宮部みゆき・東野圭吾・星新一・夏目漱石・小川洋子が好き。 最近数学・宇宙論・翻訳などに興味がある。 アニメ・声優オタ
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2024年1月21日日曜日

翻訳の面白さ

翻訳と日本語訳は違う。翻訳については、『翻訳はいかにすべきか』という本に関しては、別の記事にまとめてあるので、ざっくりと二つの違いをまとめると、次のように説明できる。

 翻訳:原文を読むのとさして変わらないものにする

 日本語訳:原文にある内容が、日本語でも理解できるようにする。

具体例としてわかりやすいのは、red herrings(赤ニシン)を題材にした英詩の訳である。

原文:I admired her rings.

日本語訳:私は彼女の指輪をほめたたえた。(注釈:admiRED HER RINGSの部分に、題材のred herringsが隠れている)

翻訳:私は彼女の指輪の赤に心底惚れた。


日本語訳では、注釈がなければ「おおーすげー」とはならない。原文や翻訳では、注釈がなくても感動できる。


にわか翻訳ファンとしては、柳瀬尚樹さんの訳が個人的には好きである。「日本語は天才だ」とは柳瀬さんの言葉であるが、彼の翻訳を見ていると、確かに日本語は天才だと思わされる。先に挙げたred herringsも、彼の訳であったと記憶している。


ということで、翻訳って面白い、奥が深い、ということをわかってもらいたいので、授業で生徒に翻訳させた英文と、その翻訳文を紹介する。


不思議の国のアリスより

 He was a turtle, but we called him Tortoise.  Why?  Because he TAUGHT US!

 生徒訳

 僕たちの先生は立派な雄牛だったが、みんな子牛って呼んでたよ。なんでかって?彼が講師だったからさ!

 うちの先生は白猫だったけど、黒猫って呼ばれてた。だって尾も白みがなかったからね。

 先生とは赤の他人だけど、親子関係さ。あいつがいなけりゃ始まらない。あいつはチーチャーだからな。(麻雀 起家[チーチャ] 最初の親をする人のこと)


不思議の国のアリスより

That's the reason they are called lessons, because they lessen from day to day.

 授業数は日ごとに減るんだよ。地獄みたいな授業だからヘルのでちょうどいいだろ。

 授業数は日ごとに減るんだよ。「まなび」なんだから、「まのび」させないようにしなきゃ。

 言語数理運用科だろ、言数なんだから減数していくんだよ。

 いろんな現象を教えてくれたのさ。減少する現象もね。


なぞなぞより

 Where does today come before yesterday?  In a dictionary!

 今日より明日が先に来るのはどこ? 辞書!



など、「この言葉遊びは翻訳できないだろ」と思うようなものが、日本語でならできてしまう。


難しいのは、なぞなぞである。例えば、

Why is a like noon?  Because they are middle of the day!

 Aと正午が似てるのはなぜ? どちらもDAYの真ん中だからさ!

という風に、無理やり日本語にすることはできても、日本語に翻訳することは難しい。しかし、なんとか頭を絞ると、それっぽいものが出てくる。

「よ という文字と正午の共通点を述べよ。 どちらも今日の真ん中だ」

しかし、翻訳では訳しきれなかった原文の魅力がある。それは、Aという文字がアルファベットの最初の文字である、という美しさである。日本語にするなら、「あ」という文字に置き換えなければならない。つまり、最も美しい翻訳の形は、

「○ という文字と、正午の共通点を述べよ。 どちらも○○の真ん中だ」

である。それを満たそうとすると、「日」という字の真ん中が「一」という漢字であることに注目して

「一 という文字と、正午の共通点を述べよ。どちらも「日」の真ん中だ」

という風に、何とか翻訳できてしまう。調子にのって、いくつか考えてみようと思う。


Why can't a bicycle stand on its own?  Because it is two tired.

簡単にやろうと思えば、日本語は天才なので、自転車という漢字自体がこのジョークの答えとなっている点を生かして

「自転車はなぜ自立できないのか。できないから自転車なのだ」

哲学っぽくてかっこいい。


What becomes shorter when you add two letters to it.  Short

2行加えたら短くなるものなんだ? 川柳・俳句(短歌になる)



終わりに

 翻訳って、頭の体操みたいな気がします。なぞなぞを解いたり、クイズを解く感覚と似ています。今回は、そんなパズルみたいな翻訳ばかり紹介してきましたが、通常の文も日本語訳と翻訳では違いますし、より高等な技術や知識を求められます。例えば、

 I love you →月がきれいですね

なんて有名ですが、つまりは、そのセリフや文章の言い手、書き手になったつもりで、何を伝えたかったかを100%理解したとき、自分なら(日本人なら)どういうだろうか、どう書くだろうか、と想像して言葉を選ぶのが必要なんだと思います。

2020年2月23日日曜日

学びの共同体に関しての個人的解釈

 学びの共同体というものへの理解がまだ十分でないままに記します。勉強の過程です。
 以下、言い切りの形で書きますが、全て個人的な理解に基づくものです。

1.学びの共同体についての個人的な理解
 学びの共同体とは、ざっくりと、「分からないを大切にする集団」である。なぜ「わからない」が大切なのかというと、誰かがそう感じるところに物事の本質があり、「分からない」と言える人は物事の本質がわかっている人だからである。3×4が12と覚えて仕舞えば、「3×4が分かった」とおもってしまう。しかし、「なぜ12になるのかが分からない」と言える人は、掛け算の本質を分かろうとしている人であり、また、それをわかる過程が大切だと知っている人である。こうして、「分からない」を大切にすることで本質を捉える作業は、未知の課題への対処法にもなり得る。

以上個人的な理解。

2.この共同体を構築するために必要なのは何か(どのような集団にすべきか)、そのためになにをすべきか、についての個人的な理解とメモ

必要なのは、他人の話を聞くこと。ただし、共感とは違う。俺はこう思う、私はそうは思わない、僕は君に賛成する、など、個人個人がそれぞれ違う価値観でいても良い。目的は、同じ課題に対して一丸となって取り組むこと。
したがって、このような集団を作るためには、高難易度の課題を与える必要がある。ジャンプ課題などと呼ばれている。誰しもが「分からない」と言える、また、それが恥ずかしくないという雰囲気が大事。自分一人では解決できそうにないこと、達成できない課題にどう取り組むか、を考えさせる。「3×4がわからない」という1人を放っておかないことで、その他にも理解できていなかったであろう10人がすくわれ、その先の課題における戦力の増大につながる。今度は、12÷4の時に、別の1人が「わからない」を発した時、先の11人の中から説明できる人が現れるかもしれない。もしくは、先の11人の理解の過程を見ていたほかの人が、ふと何かに気付けるかもしれない。
結論として、クラスのみんなを尊重する、ということが求められる。みんなで仲良くしましょう、ではなく、仲良くなれる人なんていないかもしれないが、自分の武器として使うことが出来る人の集まりなのだ、というくらいの認識になっておかなければならない。その結果として、無視やらいじめやら、汚くて触りたくない、話したくない、などと言っている場合ではない、という気にさせなければいけない。

以上、なんかそんな気がする、という、「もしかして、こういうことかな」という個人的な気づきや考えのメモ。

2020年1月25日土曜日

R02.0125 英語教育について私的メモ

文部科学省が下ろした英語教育
「しゃべれ」「使える英語を」「コミュニケーションだ」「ただし、語彙は増やせ」
現場の対応
「1min トーク!」「でぃべーと!」「すぴーち!」「たどく!」(ワイワイガヤガヤ)
ダークホース
「学びの共同体」
馬鹿
「つ翻訳機」
あほ
「おれ、大学いかね。」
英語教員
「ぐえー」

うんこ
「民間試験導入」「いや、やっぱやめるわ。反対多いし。」

英語教員「」

みたいな英語教育、今後どうするの?
結論としては、英語教員がこの現状を受け止めて(受け入れるとは言っていない)、それぞれが信じるところに向かって動けばイイ。
以下、次の項目順に展開。
1.英語という科目の必要性
2.翻訳機を受けての英語教育
3.自分はどうすればいいのか

1.英語という科目の必要性
 a.使える英語を身につけるため
 →翻訳機でおけ。心の友を作りたいなら、その必要性が出てきたときにやれば良い。その方が良く身につく。
 b.日本語を再考察するため
 →他言語との比較によって、より深い理解へ。国語という教科の一環でやるには中途半端。これかも。
 c.生活を豊かにするため
 →音楽のようなもの?この考えもありそう。

要は、英語を使えるようになるためではなく、異文化にふれ、母語と違う構造の言語から「言語」への理解を深めるもの、としての英語が求められる。

2.翻訳機を受けての英語教育
 翻訳機でいいじゃん。終わり。なのだが、翻訳機がどのレベルまで正確なのか。たとえば、方言を使って書いた日本語、若者言葉、「いける(美味しい、可能である)」のような微妙なニュアンスを持った言葉を翻訳して、正しく自分が思ったものになるのか。という問題も考えられる。とすれば、「翻訳機を使いこなすにはどうすればいいか〜翻訳間違いの見ぬき方〜」のようなものも英語教育が担う時代が来るのかな。

3.自分はどうすればいいのか
 以下、自分の今の思いについての備忘録。
 学びの共同体の考え方には賛同する。学びの共同体とは、ざっくり言うと、「課題を解決するだけじゃなくて、自ら課題を見つけることも大事。分からないことを生徒同士で共有して、生徒で解決。その時は、聴く、を一番大事にする。3人よれば文殊の知恵」。ただし、これは英文読解、翻訳の形を取りやすい。英語でのやりとり、とはなかなかならない。
 即興性について、コミュニケーションへの意欲、という面と、言語発話における瞬発力、即時的な思考力、という面があると思う。そういう意味では大事。でも、これだけではいけない。

翻訳機があるなら、ビジネスなどで「使える」英語を身につけさせる必要はなくなってくる。ならば、いつか翻訳機を通さずに話がしたいと思ったときに、外国語を身につける方法がわかるように、そのときに勇気を持って発話に繋げられるように、という指導になるの?

→とりあえずしゃべる。単語だけでいい。(一段階)
→文として発話できるように。ただし、文法はいい。I blue like!(二段階)
→例文を参考にするなどして、語順に注意して言えるように。(三段階)
→これって、英語でなんて言うの?という疑問を発見(四段階)
→辞書などで調べる(五段階)
→一段階目に戻る
→いずれは、先生が要らないように。(目標)

このとき、発話した英語を表記すること、書かれた英文をなんとか読解すること、も併せて押さえたい。

つまり、軸は、「何これ?調べたろ!」「何やこれどうなっとんや?考えたろ!でも分からんから聞いたろ!」ってなれる生徒が作りたい。中学卒業するときに、「英語?辞書調べたり翻訳機かけたらいけるやつやろ。体当たりで覚えたろ!」って言う勢いで取り組める奴にしたい。そのためには、知識や読解への欲を植え付けたい。知ること、パズルのように読み解くことの楽しさを教えればいいのかな?


おわりに
まとまりがなく、結論がしょぼい。取り敢えずの叩き台として残し、迷ったらここに還ろうと思う。


2019年10月22日火曜日

文化が人を進化させた(雑感・備忘録:教員集団におけるDominanceとPrestige)



まだ半分しか読んでいない段階での雑感のまとめ。本書が言いたいことをざっくりまとめると、次のようになる。
 人間は、猫が顔を洗うような本能をほとんど持っていない。その代わりに、社会から学ぶことを本能として持つようになった。その結果、猫は、顔を洗う、狩りのときには姿勢を低くする、という行為を獲得するが、人間はきれいな水や石鹸で顔を洗ったり、石器→槍→・・・→猟銃をもって狩りをするという行為を、必要に応じて選択的に獲得できるようになった。このような知識の継承が、人間の進化に大きな影響を及ぼしている。
 (※ここに出した例や結論は、私の理解に基づいて勝手に作ったものであり、本文から抜粋したものではないことをご理解ください。)

人間は、他人を真似ることでその文化を発展させてきた。そこで問題になるのが、どのような行為を真似るべきか、である。この問題を解決するために、人間は「強い」人物を真似するように適応してきた。それは族長。狩りの成績が良いもの、知識を持つもの、のような、その集団で讃えられるものである。そのように他人から崇拝される人物は、大きく次の2パターンに分けられる。
・Dominance(支配力)を持つ人物
 力で他人を支配している人物。他者は力を恐れ、忠誠をちかう。
・Prestige(名声)を持つ人物
 懐の大きさで、みんなから信頼される人物。他者はこの者から知識などの報酬を得るために、親しい存在になろうと試みる。

以下は、これらのことを踏まえた教員のあり方についての考察。ここからは本書の内容から大きくそれ、自分の考えのメモ。
1.支配的教員の弊害
 支配で統制しようとする教員に大切なのは、自分の力(腕力・知識など)の誇示である。ときには他の教員を貶めてまで力を誇示しようとするため、教員の中で優劣を付けがちになる。他人から讃えられることが崇拝の対象になるための要素である時、貶められた教員は生徒からの信頼も得にくくなる。逆に、他の教員を褒めたり、他の教員にへつらう姿勢を見せると、自分に力がないことを示してしまう→他の教員に頼りたがらなくなる→教員間の連携が取りにくい。

2.名声を持つ教員の利点
 名声で統制しようとする教員に大切なのは、懐の大きさである。したがって、他人を貶めることもしない。むしろ褒め称える。このとき、周りの教員すべてが、生徒にとっての
崇拝の対象になりやすい。他人に頼る時も、自分ができないから、というよりは、これは他人の得意な分野だから、という系図に持ち込むことができる。

3.支配的教員になりがちな理由
 生徒にとっても教員にとっても、力による支配のほうがわかりやすい。さらには、身につけやすい。大きな声を出し、ぶん殴ってぐうの音も出ないようにすればいいだけである。見せしめにリーダーっぽいやつを締めておけば、周りは誰がボスかをすぐに理解する。ただ、今の教育においてこんなことはできないので、知識で勝負するしかない。てっとりばやくするには、他の教員の揚げ足をとってみたり、ミスを徹底的に糾弾したり、生徒の前で他の教員を叱ったりすれば良い。

4.教員の精神年齢
 教員だって人間である。若いときは若いし、幼い。経験だって浅い。そんなときに武器になるのは、若さ、である。しかし、若い=弱いでもある。経験の無さや知識の無さを馬鹿にされる。そして、幼いからその喧嘩を買ってしまう。つい、ありもしない知識や経験を振りかざそうとしてしまう。結果、感じが悪い、もしくは独りよがりな、あるいは他人を貶める教員が出来上がってしまう。

5.教員の育成環境をつくる
 だれだって自分を大きく見せたい時期はある。名声だってそんなにない時期がある。そんなとき、周りの教員はたいてい、「あの先生は若いのに頑張っているから」などと、フォローをしてくれる。その一言だけで、生徒はその教員を崇拝する対象にすることができる。そうやって、結果的にすべての教員の「名声メーター」を上げていくことが、教員を育成するシステムを構築することになる。

6.おわりに(愚痴)
 職場の雰囲気の良さは、各個人の名声メーターの量と比例するのではないかと思っている。そうすると、雰囲気の良い職場が成績を残しやすいのも納得できる。
 そこでそれを阻害する存在が、どの職種にも存在するであろう「口やかましいお姉さま」である。控えめに言って害悪である。個人個人の名声メーターが少ない職場においては、支配傾向の人が他人を貶めてしまう。そこでターゲットにするのは、お姉さまにターゲットにされている者である。(教員のいじめも、多分こんな感じの背景があったのではないか。)結果として、名声メーターがマイナスに振り切って、生徒(客)からも同僚からもなめられる。
 みんな仲良く、おててつないでちーぱっぱ、というのは、一見幼稚な、ふざけているような印象があるが、実は社会での集団を回す上では重要な考えであると思う。

2019年6月28日金曜日

ハイランダーデッキと学級経営

 筆者は、カードゲームの構築のポイントを通して、学級経営のポイントを見出そうとしている。これは、筆者がカードゲームという文化を尊重しており、生徒をカードに例えることを冒涜と考えていないからである。この例えに違和感を覚えたり、憤りを覚えたりすることはせずに、一意見として受け止められれば望外の喜びである。また、ここで展開する議論は、筆者の価値観に基づくものであるため、一般的な感覚とずれている部分もあるかもしれないが、そこはご容赦いただきたい。

1.カードゲームのハイランダー構築の性質
 カードゲームには、ハイランダー構築というものが存在する。本来カードゲームでは、同名カードを複数枚使用することができるのだが、すべてのカードをそれぞれ1枚ずつしか使用しないタイプの構築をハイランダー構築という。
 ハイランダー構築において大切なのは、1枚1枚の全てを根拠を持って採用すること、カード同士の関係を考えること、試合では毎回その場その場の違う展開に柔軟に対応すること、などが挙げられる。これは、カードを複数枚使用しないため、カード1枚の価値が非常に重たいこと、毎回違う手札になるため、決まった戦法が存在しないこと、が理由である。
 また、デッキ内容を調整する時、他のカードとの関係や、そのカード単体の能力を重視して少しずつ入れ替えをしていく。それは、デッキとしてよりよい試合展開ができるようにするためである。

2.学級経営の性質
 学級経営では、30ないしは40人の異なる生徒をどう活かしていくかがポイントである(と考えている)。一人ひとりの存在価値を認識し、生徒同士の関係性を考え、その場その場で様々なことに対処していかなければならない。これは、生徒一人ひとりの存在がそれぞれ尊重すべきものであり、生物である生徒を扱う上では、これという決まった指導方法が存在しないことが理由である。
 また、クラスの方向性を決めていく時、生徒同士の関係や、それぞれの生徒がどのように活躍できるかを考えて、少しずつ指導していく。そうして、最終的な卒業までに身に着けさせたい資質を養うことを目標としている。

3.それぞれの共通点
 この2つの共通点は、カード1枚1枚、生徒一人ひとりを尊重し、それらの関わりや各個人がどのように活躍する場を作っていくことを通して、自分が描く最終的なゴールを目指していることである。また、何度も軌道修正を試み、トライ&エラーを積み重ねて改善を求めている点も共通している。

4.実際の学級経営にどう活かすか
 デッキを精査する時、不要なカード、より良いものに変えることができるカードを探す。もちろん、学級経営では、クラスのメンバーを入れ替えることはできない。しかし、生徒は成長することができる。今のクラスにおいて力を発揮できていない生徒を探し、その生徒がより力を発揮できるような場面を設定したり、他の生徒との関係を作らせたりすることで、その生徒のクラスでの存在意義を高め、結果としてクラス全体がより良いものになっていけるのではないかと考える。
 どこかの話で聞いた、目立つ生徒ではなく、目立たない生徒に注目し、その生徒がより活躍できる場を提供し、育てる、というような内容のことが、カードゲームのデッキ構築の考えと似ていると感じた。
 まずは、いま活躍できていない生徒が誰なのか、また、その生徒を活躍させるにはどうすればよいのかを考えることが、学級経営における指導の一つになるのではないか。具体的には、授業での発表回数、クラスでの発言の回数を増やしたり、その生徒に話しかける回数を増やしたり、といった指導が容易に考えられる。

5.まとめ
 カードの構築も学級経営も、一人ひとりを重視することから始まる。そして、目立つ生徒や強力なカードではなく、そうでない生徒への手立てを考えることが大切である。
 カードゲームも生徒も、違う性質のものがたくさんある方が、やっぱりおもしろそうだ。

2018年7月22日日曜日

頭痛・鼻詰まりの治し方

 あちこちのネットで見つけた健康法です。この手の健康サイトには、広告やいろんなリンクが貼ってあるので、目的の記事にすぐにいけないという欠点がありましたので、こちらに端的にまとめます。ただ、実際にやってみるとなぜか効果的だったので、備忘録もかねてこちらに記します。

1.頭痛の治し方
 この治し方は3ステップです。
  1.頭の痛い部分を特定する
  2.痛い部分の形を特定する
  3.痛い部分の色を特定する
 どこが、どのような形で、何色の痛さなのかを具体的かつ真剣に考えるだけで、なぜか痛みが和らぎます。理由は、謎です。
 ※ただし、目の使い過ぎからくる痛み(目の奥からくる痛み)には対応していないようです。(個人の感想)

2.鼻詰まりの治し方
 こちらも3ステップです。
  1.息を思い切り吐ききる
  2.鼻をつまんで、2秒ほどかけて上を向く、2秒ほどかけて下を向く、の繰り返し
  3.限界まで苦しくなったらやめる
 息を吐ききって、鼻をつまみ、上下に首をゆっくり動かします。苦しくなったらやめます。すると、と鼻が通ります。脳が、「酸素が足りんぞ!鼻!詰まってる場合じゃねえ!」という指令を出すようです。
 ※一度通った鼻がまたすぐ詰まるなどの理由で、複数回続けてやると、回数を重ねるたびに効果が薄れるような気がします。(個人の感想)

3.終わりに
 本来はリンクを貼るべきなのですが、同じ内容が複数あってどれを参考にしたか覚えておらず、すべて貼るのも面倒なので今のところはリンクなしで公開します(2018/7/22現在)。随時リンクをつけていきます。

2011年6月28日火曜日

カーデュラ探偵社とクロスファイア

本まとめは、「カーデュラ探偵社」と「クロスファイア」の二作のまとめである。



1. ジャック・リッチー著 
駒月雅子訳 「カーデュラ探偵社」河出文庫(2010)



本書は、この間の翻訳ミステリー読書会の世話人をされていた駒月さんの訳書であり、短篇集である。訳者である駒月さん本人に「星新一が好きなら読むといい。絶対面白い」と言われ購入した。


1.1. 星新一ではない?
本書は、「カーデュラ・シリーズ」という探偵ものから始まっている。駒月さんのお言葉通り、星新一を念頭において読み始めたのだが、一向に星さんの要素が見当たらない。要素は見当たらないが、物語自体は面白かった。
1.1.1. 主人公のキャラクター
読み始めてまず、主人公のキャラクターに惹かれる。また、解説を読んで気がついたのだが、この「カーデュラ(Cardula)」という名前にはちょっとした仕掛けもあるようだ。
1.1.2. シリーズ物として
シリーズ物では登場人物が決まっているため読みやすい。また、水戸黄門を見るような安心感もある。本書では、最初の8編がこの「カーデュラ・シリーズ」である。

1.2. 星新一の要素
てっきり、全部「カーデュラ・シリーズ」だと思い込んで読んでいたため、9編目が非常に読みにくかった。「カーデュラはまだか!」と思っている間に読み終えてしまった。慌てて目次を見ると、9編目以降に「カーデュラ」の文字がない。ここでやっと気づき、9編目をもう一度読み返してみると、星新一のような面白さがあった。星新一を探してカーデュラを見つけ、カーデュラを探して星新一を見つけるとは、なかなか皮肉なものである。

1.3. 本書の勧め方
「面白い本」をさがしている人にはもちろん、「探偵ものが好き」という人や、「星新一が好き」という人にも薦められる本である。ただし、「探偵もの」や「星新一」関係ですすめるときは、「最初の8編は探偵ものであること」・「星新一の要素があるのは9編目以降であること」を明確にしなければならない。また反対に、本書から「探偵もの」や「星新一」につなげることも可能である。




2. 宮部みゆき(2002) 「クロスファイア」 光文社文庫



「逆スピン・オフ」
本書は、同社出版の「鳩笛草 燔祭 朽ちてゆくまで」(2000)に掲載されている「燔祭」が発展した物である。私はこの「燔祭」を読んでいたので、その辺の細かい事情に関して楽に理解できた。もちろん本書「クロスファイア」は、読んでいない人にも十分わかるように書かれている。





3. 特殊能力と報復殺人
以上挙げた二作には、共通の点がある。「特殊能力」と「報復殺人」である。
3.1. 特殊能力
どちらの作品にも、特殊な人間が登場する。SFが好きな人は、惹かれてしまうような設定である。
3.2. 報復殺人
若干のネタバレではあるが、どちらの作品にも「報復殺人」が出てくる。片方の作品ではあまり触れられていないが、もうひとつの作品ではこの「報復殺人」がテーマの一つであるといえる。このように、ある二極的な問題を含む小説などを取り上げて「道徳教育」に活かすことはできないのか、など考えた。


4. おわりに
全く関係の無い小説同士でも、恣意的に見ればそこに何らかのつながりが見えてくる。小説内で思いを巡らせるのはもちろんだが、小説間で思いを巡らせるのもひとつの楽しみであって良いのではないかと思う。

2011年6月7日火曜日

メモ~ゼミまとめからの排除~

以下メモ。ゼミのまとめに掲載してない部分。

1. 「伝達に制限を加える要素」と「相互理解を可能にする要素」

1.1. 制限を加える要素

伝達に制限を加える要素として、以下の二つの要素が挙げられている。(p.80)

(1) 同種の経験を現すのに、正確に同じ記号を用いるものは二人といない

(2) 同じ記号を正確に同じ方法で用いるものは二人といない。

1.2. 相互理解を可能にする要素

一方で、高度な相互理解を可能にする要素も挙げられている。以下の四つである。(PP.80-83)

(1) 知的活動の類似性:根本的に思考過程は本質において同じである。

(2) 身体的反応の類似性:身体の反応の形は似通っている。

(3) 文化的経験の範囲:文化の主要素(物質的・社会的)への参加方法の類似。

(4) 行動様式への順能力:子どもだけでなく大人も、文化に順応する力がある。

以上のことから、「完全な伝達が個人間に不可能だという事実にもかかわらず、同一言語社会内であろうが、異なる社会内であろうが」【1.2.】で挙げた四つの要素のため、「高度に有効な伝達がすべての民族の間に可能なのである」(p.83)

2. 指示的意味と情緒的意味

2.1. 指示的意味

一般的な三つの記述方法(P.104)

(1)指示物や、その特徴の提示

(2)その語が含まない領域との境界線の明示

(3)同義語の表示

2.2. 情緒的意味の分析

文化的脈絡によるか、言語的文脈によるしかない。

ミカエル・ウスティノフ(2003)服部雄一郎訳『翻訳ーその歴史・展望』 白水社
p.16
根本的翻訳不可能性


P.56
そもそも本当の翻訳の形が一つしか存在しないなどと仮定する必要はないのである。
一八一三年の(中略)『翻訳のさまざまな方法について』(中略)「翻訳者は、作者をできるだけそのままにし、読者が作者のところまでやってくるようにするか、あるいは読者をそのままにし、作者が読者のところまでやってくるようにするか、そのいずれかである。」

P.59
文学の翻訳は言語的な作用ではない。それは文学的な作用なのだ。エドモン・カリー(1985)『翻訳はいかに行うべきか?』

P.74
言語内翻訳、つまり言い換えは、言語記号を同一言語の別の記号を用いて解釈するものである。(中略)さらに他人と完全に同じことを表現したい場合、まったく異なる単語や言い回しを自分なりに用いるだろうことを思うと、それはあたかも(中略)翻訳を行っているかのようである。シュライエルマッハー(1813)『翻訳のさまざまな方法について』

P.77
「起点言語」の側の言い換えは、どちらかといえば、理解の次元に属す。「目標言語」の側の言い換えは、どちらかといえば、表現の次元である。(だからこそ、プロの翻訳においては、(中略)原則として、より習熟度の高い言語に向かってしか翻訳すべきでないとされている。)


「実務テクスト」に置いては内容の伝達が重要で、「芸術的テクスト」では「語順や語数、イメージの厚みにまで気を配る」ことが重要である。



W.A.グロータース/柴田武 (S42)『誤訳 ほんやく文化論』三省堂新書
「まず、翻訳は、A言語の概念(concept)の“核心”(kernel)のところだけを移し替えて、それに対応することばをB言語のなかで生み出すような過程である、と定義することができる」(E.A.Naida: Toward a Science of Translating. Leiden. 1964. p.146)


2011年6月2日木曜日

武田双雲~夢の叶え方~

広島の商工会議所でサテライト中継された、

慶應丸の内シティキャンパス2011年度前期『夕学五十講』

というものを受講してきました。毎回オムニバス形式で様々な方が講演されるのですが、今回は書道家の武田双雲さんの、「夢の叶え方」というお話しでした。そこであったお話しを、以下に三点にまとめようと思います。



1. 夢を持て
武田さんは終始、夢を持つことの大切さについて説いておられました。またそのお話しの中で、「夢を持つとはどういう事なのか」という点にかんしても触れられていましたので、以下に二点にまとめます。

1.1. 巨人の肩に乗る
「私たちは、昔の人たちが叶えた夢の上に立っている」。武田さんはそう語ります。その例として挙げられたのが「洗濯機」。もっと楽に洗濯がしたい、という昔の人の夢があり、それがかなえられた形として「洗濯機」が生まれました。そして、「さらに楽に洗濯がしたい」という夢が何度も叶えられた結果として、現在の洗濯機があります。このような、日々の小さな願いや「欲望」を持つことも、「夢を持つ」という行為の一つなのです。

1.2. 夢における「点」と「線」
夢を持つという事は、ゴールを作ることです。しかし武田さんは、「ゴールを作る行為そのものが目的なのではない」と言う点を述べています。ゴールを設置することで、私たちは日々の生活で、そのゴールに興味を持つようになります。武田さんの場合、「世界を感動させる」というゴールを設置したところ、「世界とはどこまでを指すのか」・「感動とは何か」といった事を真剣に考えるようになったという事でした。ゴール地点という「点」を定めることも重要ですが、そこにたどり着くまでの日々の生活という「線」を大切にすることで、「夢を持つ」という事の真価が見えてくるのです。



2. 夢と欲望
日々の小さな願いや欲望も夢の一つである、ということを【1.1.】で述べました。現代の日本において、この「欲望」は「悪いもの」として禁じられている傾向にあります。しかしそのことで、元気の源でもある「良質の欲望」までも禁じられてしまっているのではないか、という点を指摘しています。この点についてもう少し詳しくまとめていきます。

2.1. 「欲望」と「夢」の違い
欲望は夢の素です。しかし両者には、根本的な違いがあります。
2.1.1. 欲望
欲望は、今現在持っていないものを欲する心であり、そこには若干のネガティブなイメージがあります。つまり、欲望を抱く背景・前提として、「何かが欠けている・心が満たされていない」という点があるという事です。
2.1.2. 夢
欲望と比べて、夢は「欠落」を前提としません。したがって、夢にはポジティブなイメージがあります。しかし、一見反対のもののように思えるこの二者には、実は密接な関係があります。

2.2. 「欲望」が「夢」に変わる時
どんな夢も最初は欲望であると、武田さんは言います。挙げられた例としては、「お金持ちになりたい」という欲です。こうした欲望は「磨き鍛える」事で夢に転化すると言います。例えば、お金だったら「いくらほしいのか」・「その使い道は何か」など、細かいところを詰めていくことで、漠然とした欲がだんだん具体的な像を持つようになり、夢と呼べるものになっていくのだそうです。またこの時のポイントは、「自分だけの個性的な夢にすること」と、「世間にとって魅力的である夢にすること」です。この二点のバランスが大切なのです。


3. 夢の叶え方
最後に、今回のタイトルでもある「夢の叶え方」に関してまとめます。キーワードは、「夢へのビジョン」・「言葉の力」です。

3.1. 夢へのビジョン
ここでは「空海」の言葉を引用しておられました。「悟りを開いたつもりで世間にまみれなさい」という言葉です。これに関して、もう少し詳しく記述します。
3.1.1. 認めてくれない症候群
夢へのビジョンを描くことの重要性を示すために、「認めてくれない症候群」という概念を用いて説明されていました。これには滝修行が例に挙げられています。「悟り」という概念がなんなのかを議論することなく、我慢して滝を浴び続けることをがむしゃらに続けても意味がない。挙句の果てには、「なぜこんなに頑張っているのに悟りが開けないんだ、どうして認めてくれないんだ」と嘆くことになる。この状態を「認めてくれない症候群」と言います。
3.1.2. 夢を叶えたものとして生活する
夢へのビジョンを描く一つの方法として、「夢をかなえたものとして生活する」というのが挙げられました。空海の言うところの「悟りを開いたつもりで世間にまみれなさい」というものです。普段の何気ない生活も、「もし俺が夢をかなえた状態なら、いったいどう行動するだろう」と考えることで、その「夢」がどんなものなのかを知ることが出来るというものです。別の言い方をすれば、「成功した自分を描く」という事です。

3.2. 言葉の力
ここでは主に、「書く」という行為に潜む言葉の力に注目して語っておられました。書くことで人間の潜在意識に作用し、無意識のうちに書いたことに注意しながら生活することになるんだそうです。また、書いたことを壁にはっておくと、より効果があるとのことでした。これは、【1.2.】で述べた「ゴールに興味を持つ」という効果をさらに強めたものと捉えることも出来るように思います。また、このほかにも「書くことによって目標の整理が出来る」という点も重要だと述べられています。

これらのことから、「夢の羅列」をすべきだという点を強く主張されていました。この「夢の羅列」は、実際に参加者に課した課題でもあります。「書けば夢はかなう」。これが武田さんの信念でした。


4. 書くことのもう一つの活用術
夢をかなえるという文脈からは少しずれますが、書くことで日々の習慣を変えることが出来るという事も主張されていたので、それもここに紹介します。
私たちは日常の中で、「嫌だな」とか、「めんどくさいな」など、重荷に感じていることがいくつかあります。そんなときは、本心とまったく反対の事を書けばいいそうです。例えば、朝起きるのがつらいという人は「僕は朝起きるのが楽しみでしょうがない。早起きして、朝の気持ちいい空気を吸って、珈琲を飲みながら優雅な朝を過ごすのが好きだ」という内容の事を書けばよいのです。それを続けることで、いつか本当に朝起きるのが楽しみになるのだそうです。



感想
要するに気の持ちようという事でしょうか。ただ、書くことのが持つ力については見過ごすことが出来ないと感じています。言語を教えるという行為には、必然とライティングという活動が含まれます。このライティングの活動でも、「アウトプットの場」や「正しい文法で・いい内容のものを書く場」などという意識のほかにも、「書くことの力を実感する」という視点もあっていいのではないかと考えました。今後はこの考えを深め、発展させたり見直したりしていけたらなと思います。

2011年5月29日日曜日

福岡翻訳ミステリー読書会


一次回

先日、福岡で開催された翻訳ミステリー読書会と言うものに参加してきました。
お世話をしてくださったのは、翻訳家の駒月さん三角さん、そしてゲストには、こちらも翻訳家の横山啓明さん御著書一覧はこちらから)がお見えになり、やく二十名ほどの参加者で課題図書:キャロル・オコンネル『クリスマスに少女は還る』(Judas Child) 務台夏子訳 についての感想を言い合ったり、細かいところを話し合ったりしました。

詳しい内容に関しましては、他の参加者のかたが既にまとめておられるので、そちらをご参照ください。

NOBNOBさん:『積んどくも読書のうち?』

皆さんが読書会での感想を言っているとき、本当に楽しそうに話されていました。細かいところまで読んでこられた方もおられました。面白いとか、面白くないとか、色んな感想・意見がありましたが、どの方の発表を聞いても「本当に読書が好きなんだな」と言うのが伝わるようでした。


二次回

二次回では、色んな人に色んな本をお勧めしていただきました。ロス・マクドナルド、ペレケーノス・・・新出単語が多い日でした。また、翻訳者で選ぶという方法もおそわりました。

駒月さんからは、御本人の翻訳書、ジャックリッチーの『カーデュラ探偵社』をお勧め頂き、早速アマゾンに手購入。これは短編集で、星新一のような面白さがある、とのことでした。

二次回も終盤に差し掛かったころ、横山さんとお話しする機会がありました。御本人翻訳のマット・ラフの『バッド・モンキー』というのがお気に入りのようで(?)こちらもメモして帰り、早速注文しました。



折角の機会だったので、一つ質問をさせていただくことにしました。「日本にも面白い作品はあるのに、あえて翻訳書を選ぶ理由を挙げなさい」という内容の下らない質問でしたが、横山さんは丁寧にお答えくださいました。まとめますと、



実際日本の本の質も上がっているし、なぜ翻訳書かと聞かれると答えづらい。あえて言うなら「外国への興味」とか、「舞台の違い」なんかが挙げられるだろう。違いという点では、日本にはない“バカや無茶”があるのも大きな点かも知れない。

また、日本の作家にしても、そのルーツは翻訳書にある。言わば、現代の日本の文化は翻訳書に育てられたようなものであり、そのルーツを追うのも醍醐味の一つ。さらには、このままルーツをおざなりにしたら、日本文学の衰退にもつながるやもしれない。
とはいえ、現代の若者はルーツを追う事をしなくなってきた。やはり、翻訳書云々ではなく、一つの作品として、作家として楽しむことが出来ればいいのではないか。


というような内容でした(と思います)。

もうひとつ。退室間際でした。「翻訳は読みにくいというイメージがあって取っかかりにくい」、という話に転んだのですが、その時横山さんはこのように仰いました。「最近はちゃんと読者を意識した翻訳になっている。原作がどんなに難しいものでも、読者を意識して、出来るだけわかりやすくしている。読者あってのもの。」

メモ不足で、実際どう仰ったかはっきり覚えていませんが、そのお言葉になにかぐっと来るものがあったのを記憶しています。メモが無い今、その「ぐっと来るもの」をここにうまく表現できないので(メモがあっても出来ないだろうと思いますが)、このお話はひっそり、自分だけの糧にしようと思います。



三次会

皆さん屋台に行くなどの流れに反して、僕は参加者のお一人(Sさんと称します)につれられ中州へ。建物はきらびやかで人は多くて、服装もスーツやらなんやらで、“表”とは違う雰囲気でした。数分すると、ぱっとしないビルにつきました。そこのぱっとしないエレベーターに乗って上へ。エレベーターが止まって扉が開くと、明らかに今までとは違うダークブルーの世界が広がりました。向こうからボーイさんが二人やってきて「これはこれはS様。お久しぶりでございます」、と、どこかのドラマかなんかでしか聞かないセリフ。これがクラブか、と圧倒されている内に、席に案内されました。

席につくと、最初に綺麗な女性が二人ほどいらしました。その後なんだかんだで入れ替わり立ち替わりがあって、結局男二人に女性三人という形に。

そこでの女性の立ち居振る舞い、ボーイの心遣いなんかに感心しました。女性はと言うと、Sさんが煙草を取り出すや否やライターがでてくるし、グラスに水滴がついたらせかせか拭いてるし、会話の流れの中で自然と持ちあげるし。ボーイさんはというと、いつの間にか現れたりいつの間にかいなくなったり。声のトーンははっきり聞こえるのに邪魔にならない。

これも折角の機会なので、立ち居振る舞いのいろはについてお尋ねすることに。以下にまとめます。

1. 飲み物
氷は音を立てずにセット。お酒はラベルを上にして(常識)、皆さんが持つところに触れないよう、ボトルの半分より下を両手で支えてそそぐ。そそぎ終わるときは、ボトルを少し回転させることでお酒を切る。氷を追加して、お水で薄める。この時、乾いた氷で口を切らないよう、全ての氷に水をかける。マドラーで氷を沈める。そして混ぜる。マドラーを抜く前に回っている氷を止める。水滴を拭いて出す。

2. 姿勢とポジション
2.1. 姿勢
手は膝の上で重ねる。左が上。理由は、右手は刀を握る手であり、それを隠すことで敵意の無いことを示すという日本の伝統から。
2.2. ポジション
今回のように5人の場合:奥から、
a)指名された人 b)お偉いさん(Sさん) c)連れ添いの世話役 d) 連れ添い(私) e)お酒を作る人
の順に座る。

奥が深いと思います。もはや日本の伝統ですね。


と、濃い一日でした。

読書会の記録と言うよりは、「中州探検記」みたいになってしまいましたが、よしとします←

最後に、御機会を与えてくださった駒月さん・三角さん、そして東京からお越しの横山さん、いろいろなお話しを聞かせてくださったSさんや参加者の皆さんに感謝します。

2011年5月25日水曜日

落語の翻訳に関する研究に向けて

この資料は、以下の三つの文書をまとめた物である。

①村上春樹・柴田元幸(2000)『翻訳夜話』文春新書小

②林敏彦(2000) 『洋画の字幕翻訳の特徴とその類型』人文研究 (2000), 100: 27-82

2000-09-29公表

James R. Bowers (1996) “AVOIDING THE TRAP AND SETTING IT FOR OTHERS: THE WORK OF INTERPRETATION AND PERFORMANCE IN THE TRANSLATION OF RAKUGO: JAPAN’S POPULAR NARRATIVE ART”

上二つに関しては過去のブログ記事参照

映像翻訳~字幕の役割~

『翻訳夜話』

[翻訳夜話]

0. はじめに

本書は、翻訳セミナーにおける二人(村上・柴田)のやり取り、また、そのセミナーの参加者との質疑応答を文字に起こしたものである。セミナーは3回、大学生対象・翻訳家志望者対象・現職翻訳家対象で行われている。

1. 翻訳の在り方

本書中で、村上・柴田が述べる“良い翻訳”の要素についてまとめる。

1.1. 原文の感じを読み取る

村上は、翻訳では、「シンパシーというか、エンパシーというか、そういう共感する心」や「相手の考えるのと同じように考え、相手の感じるのと同じように感じられる」(p.38)という点が大切であり、そのためには「原作者の心の動きを、息をひそめてただじっと追うしかない」(pp.62-63)と述べている。また、柴田はこの点に関して、「「うまい翻訳だな」と読者に感じさせること自体が、悪訳の証」(p.109)である可能性を提示している。

1.2. 訳語選択

 訳語を選ぶ際、村上は「目をクリクリさせた」や「目をむいた」という直訳の表現が目につくという。(p.101) 柴田もこれに関しては、「一単語、一単語対応で再現するひつようはないですよね。」と述べている。(p.103) ここから、文脈によって訳を変える必要もある、という点がうかがえる。

 しかしその一方、「創作的親切心が成功している翻訳の例を、僕はあまり目にしたことがありません。」と村上は言う。そうした「親切心」が、「翻訳者のただの自己満足」になる可能性の指摘である。(p.108) 訳語の選択は、その場その場で柔軟に行う必要があると言う事である。

2. 翻訳におけるスコポス理論

スコポス理論とは、翻訳はその目的に応じて形を変えるというものである。本書でもこの点が指摘されている。村上は、「細かいところが多少違っていたって、おもしろきゃいいじゃないか」(p.20) と述べている。また、翻訳者としては、「読む人は違和感を感じると思ったら、翻訳者は自分の判断で変えていいんじゃないか」(p.62)という見解も述べている。

 実際に自著の作品の翻訳に関しては、「自分が書いた本なのに「おもしろいじゃない」と他人事みたいに言って、最後まで読んでしまえるというのは、訳として成功している」としている。

[洋画・字幕]

0. 本論文の概要と、これをまとめるに当たって

本研究は、洋画を活用した授業展開における、「学習者及び教育者の双方にとって有益な次資料を提供すること」を目的とした物である。実際に35本の洋画を分析し、字幕の本質の分析・特徴別の類型化を試みている。(ABSTRACT要約)

本まとめでは、conclusionにある字幕の役割と、その根拠となる具体例とについてまとめる。したがって本文中における、字幕を18種類(簡略・省略・類似・一般化など)に分類して論じている部分に関しては扱わないこととする。

1. 字幕の特徴・種類(conclusionより)

本論文のconclusionでは、字幕の役割・特徴を7種類に分けてまとめている。以下に示すものは、conclusionをさらに簡潔に書き換え、その根拠となる具体例を付け加えた物である。

①正確さよりも明瞭さ(例示なし)

②字幕スペースの制約による簡略・省略。(例示なし)

③行き過ぎた省略

例) [It's ten after 9:00. Why aren't you in school?] → 「学校 はどうした?

『「もう9時過ぎているぞ」を入れてもよかったのではないだろうか。字幕スペースの余裕は十分あったはずであり、この省略は行き過ぎではないだろうか。』(p.67)

④雰囲気・細かな感情の表現を損なう簡略・省略

例)[I’ll take it back to Tony with a message.] → 「おれが返してやる」

「説教してやろうという主人の怒りが伝わってこない。(中略)怒りは感じられるものの、やはり物足りない感じは否めない。」(pp.55-56)

⑤混乱を防ぐための、説明台詞の簡略・省略

例)[Mr. Cannelli wants a little souvenior.] → 「その前に舌を切り取ってやる」

Mr. Cannelliは、組織のボスである。本論文の説明文から推測すると、Cannelliの手下がつかまって、殺される(殺されそうになる)シーンである。Cannelliは特に重要な役ではないため、下手に名前を出すと観客が混乱してしまう。 (pp.71-73)

⑥ 情報の明確化・説明台詞としての字幕

例)[Now… Fulfill your destiny and take your father's place at my side.]

→「さあ、父を殺し自分の運命に従うがいい  父の後を継ぎ私の下僕となれ」

「皇帝がルークに父親を殺してダークサイドに入ることを勧めているシーンである。原文にはない「父を殺し」を付加することで「自分の運命」の内容が明らかになり説明台詞の役割を字幕翻訳が果たしている。」(p.70)

⑦ 日本語の助詞を活用した字幕

例)[No matter what happens, we land this aircraft. Is that understood?]

→「何が何でも着陸させるのだ」

『「のだ」という文尾によって命令の絶対性が強調され、下線部の省略の分を補っているようである。』 (p.65)

[落語・翻訳]

0. 本論文とその“まとめ”に関して

0.1. 本論文は、三遊亭円笑による、文七元結(ぶんしちもっとい)の「枕」(落語における“前置き”のようなもの)の部分を分析している。構成は大きく三つに分けられる:①「落語とは何か」の説明(落語のレトリック・落ち・種類)②文七元結に関して(あらすじ・構成・解釈と分析・transcriptと英訳文の提示)③結論。

0.2. ここに取り上げるに当たって

「落語とは何か」や「文七元結に関して」に分類した部分は、あまりに具体的であるためここではほとんど扱わず、中でも重要と思われる点に関していくつか取り上げるだけにとどめる。

1. 落語のレトリック

1.1. 間

ここには、三種類の間:①笑いの要素に気付かせる間、②リズムを取る間、③場面の切り替わりを示す間、が示されている。(p.35)

1.2. 登場人物の細かな描写

落語では、登場人物が様々な方法で描写される。例えば、①声を変える、②表情を変えるなどによる、個人の特定・感情の表現が挙げられる。またこの描写によって、「いちいち誰が話しているか提示せずに済む」というのが挙げられている。(p.35)

2. 分かりづらい日本語の文化

枕で紹介される、三道楽煩悩(さんどらぼんのう)「飲む・打つ・買う」というメタファー、特に、“買う・打つ”が示すことは、英語圏に住む人にとっては分かりづらいようである。(pp.44-45)

3. 結論

日本の言語・文化を理解することで、落語の本質が見えてくる。翻訳においても、落語の本質・味といったものの訳出は、こうした理解に基づかなくては出来ないだろう。(p.46)

研究への展望

以上にまとめた文書の、本まとめにおける位置づけは以下のとおりである。

①翻訳夜話…翻訳の在り方、目的(スコポス)の在り方といった「一般的な翻訳」という視点

②洋画・字幕…映像翻訳という立場から、字幕の在り方に関する視点。

③落語…落語の翻訳に必要な要素とは。

このことから、「落語における(映像)翻訳」についての研究が出来ればいいな、と考えている。また、桂枝雀などの「英語落語」に関しても興味があるので、文献を探したいと思う。

2011年5月19日木曜日

『翻訳夜話』

村上春樹・柴田元幸(2000) 『翻訳夜話』 文春新書



0. はじめに
本書は、翻訳セミナーにおける二人(村上・柴田)のやり取り、また、そのセミナーの参加者との質疑応答を文字に起こしたものである。セミナーは3回、大学生対象・翻訳家志望者対象・現職翻訳家対象で行われている。現職翻訳家対象のセミナーにおいては、レイモンド・カーヴァーのcollectors、ポール・オースターのAuggie Wren's Christmas Storyを、村上訳・柴田訳で提示し、翻訳に関しての具体的な話を展開している。各セミナーを通して、似たような内容が述べられている面もあるため、本まとめにおいてはセミナー別ではなく、内容別にまとめていく。なお、本まとめにおける「二人」という表現は、「村上・柴田」を示す。

1. 翻訳の愉悦
本書を通して、二人とも翻訳の楽しさについて語っている。
1.1. 精読の愉悦
 精読の愉悦に関しては、以前のブログ記事:読書の愉悦を次世代にで述べた。今回は、それとはまた違った「翻訳の愉悦」が述べられているので、ここに取り上げる。
 村上は翻訳を、「もっとも効率の悪い読書」であり、「好きじゃないとできない」物としている(pp.110-111)このことから、二人が翻訳を好きでやっているという事がうかがえる。その理由を以下にまとめる。
1.2. 村上の場合
村上は、「翻訳のことになると、ついつい手が動いて、仕事が進んでしまう。いったいどうしてそんなことが起こるのだろう」と、本書のまえがきで述べている。(p.4)それでも翻訳が好きなのは、「文章というものがすごく好きだから、優れた文章に浸かりたい」という理由からであるという。(p.110) いわば、「いい文章のメカニズムを解明してみたい」という関心があるという事である。(p.58)ただし、本人も「なぜ翻訳が好きなのか」と言う問いに対する確固たる答えは持っていない様子で、いささか答えにくそうではあった。
1.3. 柴田の場合
柴田は、「紹介する喜び」として「翻訳は愛だ」ということを言っている。(p.112) しかし、愛は愛でも、複雑になっているそうである。その部分を以下に引用する。

「翻訳者が真ん中にいて、テキストは右にいて、左に読者がいて、それで要するに、左右両方の女性に愛を振りまいているような(笑)、そういう不純なことをいつもやっているのが翻訳かなという気になってきただから、愛は愛なんですよ。愛が複雑化してきたんです」(p.113)

2. 翻訳の在り方
良い翻訳とは、また、翻訳の際に何に気を付けているか、といった点に関してまとめる。
2.1. 原文の感じを読み取る
村上は、翻訳では、「シンパシーというか、エンパシーというか、そういう共感する心」や「相手の考えるのと同じように考え、相手の感じるのと同じように感じられる」(p.38)という点が大切であり、そのためには「原作者の心の動きを、息をひそめてただじっと追うしかない」(pp.62-63)。したがって、「自分の中に呼応するものがないテキストというのは、疲れます」(p.196)と述べている。この点に関して柴田は、「「うまい翻訳だな」と読者に感じさせること自体が、悪訳の証」(p.109)である可能性を提示している。

この点に関して過去ブログ記事より

2.2. 訳文における日本語
訳文も文章であることには変わりない。そこで、訳文を書く時に注意しなければならない点がいくつかあると言う。以下、三点にまとめる。
2.2.1. リズム
読みやすさに関して、村上はリズムの大切さを述べている。その部分を以下に引用する。

「ビートがない文章って、うまく読めないんです。それともう一つはうねりですね。ビートよりもっと大きいサイクルの、こういう(と手を大きくひらひらさせる)うねり」(p.45)

また、「目で見るリズム」や「目で追ってるリズム」と、「言葉でしゃべっているときのリズムとスピード」は違うという点も指摘している。(p.212)
2.2.2. 訳語選択
 訳語を選ぶ際、村上は「目をクリクリさせた」や「目をむいた」という直訳の表現が目につくという。(p.101) 柴田もこれに関しては、「一単語、一単語対応で再現するひつようはないですよね。」と述べている。(p.103) ここから、訳語の選択は辞書の意味をまる写しするのではなく、その文脈によって換える必要もある、という点がうかがえる。
 しかしその一方、「創作的親切心が成功している翻訳の例を、僕はあまり目にしたことがありません。」と村上は言う。そうした「親切心」が、「翻訳者のただの自己満足」になる可能性の指摘である。(p.108) 訳語の選択は、その場その場で柔軟に行う必要があると言う事である。


3. 翻訳におけるスコポス理論
スコポス理論とは、翻訳はその目的に応じて形を変えるというものである。(ブログ記事:藤濤 文子(2007)『翻訳行為と異文化コミュニケーション』参照) 本書でも、どういう翻訳文を書きたいかに依って、翻訳は形を変えるという点が指摘されている。この点に関して村上は、「細かいところが多少違っていたって、おもしろきゃいいじゃないか」(p.20) と述べている。また、翻訳者としては、「読む人は違和感を感じると思ったら、翻訳者は自分の判断で変えていいんじゃないか」(p.62)という見解も述べている。
 実際に自著の作品の翻訳に関しては、「自分が書いた本なのに「おもしろいじゃない」と他人事みたいに言って、最後まで読んでしまえるというのは、訳として成功している」としている。


4. その他、興味深いことに関して
本書には書かれていたが、まとめでは扱わなかった点に関して興味深いと思った点を挙げる。
○重訳
一度翻訳されたものを、また別の言語に翻訳し直すという作業の事。
○賞味期限
原作が世に出回った後、その熱が冷めないうちに翻訳書も完成させるべきという考え。正確さも大切だが、スピードが必要な場合もある。この点にかんしては、「賞味期限の長いもの」や、“色あせないもの”は無いのか、例えば、文化に関する物の翻訳書は、遅くても特に問題は無い気がするし、逆に遅ければ遅いほど味が出てくるものもあるのではないか。

2011年5月15日日曜日

教師への夢、今こそ

広島県教員採用試験説明会

説明会のメモ。

0.はじめに
1. 知・徳・体
2. 生きる力の基礎
3. 現場の先生方のお話


はじめに. 広島の現状
広島で生まれ、育ち、学び、働いて良かったと思えるような未来プロジェクト。それに向けて、特に求められる素質は、①確かな授業力②豊かなコミュニケーション能力③新たなものに積極的に挑戦する意欲④他の教職員と連携、協力し、組織的に職務遂行する能力「詳しくは前掲の記事:教職志望者のための都道府県別説明会

1. 知・徳・体
夢を育てる環境づくりのための基盤としての三要素。

1.1. 知:確かな学力
共通学力テストなどによるテストの結果は好成績。但し、間違い・無回答率などから、「思考力・表現力」がネックである事が判明。こうした分析結果を活かして、授業の改善を図っている。またその支援として、(教員のための?)DVDの製作等が行われている。また、具体的な取り組みは、以下の4点ある。

①小中学校少人数授業
TT・非常勤講師などによる少人数授業

②中学学力向上対策
今年三年目。教員が集まって、指導の在り方について研究し、それを各地の学校に活かす。

③高校学力向上対策
トップリーダーハイスクールなるものを設置し、生徒の進路希望をかなえるべく、基礎学力向上・合宿・大学ナビセミナーなるものの開催をしている。

④特別支援学校就職支援
自立した社会参画を推進。



1.2. 徳:「豊かな心」の育成
暴力行為の発生件数が、一時増加したものの、今では減りつつある。また、不登校対策として、小中学校の連携をしている。これらに関する具体的な取り組みは、以下の四点ある。

①生徒指導総合対策事業
指導重点校をおいたり、スクールカウンセラーの設置

②「山・海・島」体験活動
非日常的な生活や、そこでの人々との関わりを通して、自立の推進・人間形成力の支援をする。

③心の元気を育てる地域支援
他者との関わり合いの中で自尊心を強め、社会参画への興味を高める。また、不登校防止の一環でもある。

④広島自慢事業
地元を知り、郷土への理解を深め、郷土愛を育てる。


1.3. 体:健やかな体
測定の結果、年々体力は付いているが、「握力・ボール投げ」において劣っている。



2. 生きる力の基礎
2.1. ことばの教育
思考・判断・表現力をはぐくむ点から、地元についての紹介などを通してことばの教育を推進。

2.2. キャリア教育
地域や産業界などとの連携を取っている。また、小中高一貫で「私のキャリアノート」なるものを用意し、今までの自分の職業観などを保存する。社会人として自立するための、資質や能力・意欲などをはぐくむ。

2.3. 食育の推進
H19より、知識・実践力をそなえ、家庭での食育の大切さを心得ている「栄養教諭」の配置。また、地元産の食材を使う事によって、業者への感謝、郷土に関する理解・愛着を育てる。


3. 先生方のお話
現場の様子と、試験に向けた勉強法について、四人の先生からお話しがあった。

3.1. 現場
教師をクラスの一員として見てくれたり、保護者の方、他の教職員の方の理解や手助けなど、様々な支えがある中、それに甘んじることなく全力を尽くしておられる。

3.2. 対策
 [一次]
兎にも角にも「広島県教育資料」と「教科の学習指導要領」の熟読。前者は、広島県が特に力を入れている四項目「生徒指導」「ことばの教育」「食育」「特別支援」に関しては必須。後者は、やはり読みづらいらしいが、大切な点は「~~に配慮する」や「~は次の三つある」等の文句が出るところを重点的にするとよい。また、読んだ内容を丸暗記ではなく、まとめるなどしてまず理解し、それから徐々に暗記に移るという手もある。
 [二次]
人との関わりを持つ、現場を見る、新聞などで教育問題をチェックするなどして基礎的な力を付けるとともに、それらを統括するための自分の軸をもつように努めるべき。また、指導案は実践を通してその内容・流れの確認・改善の積み重ねが大切。模擬授業も面接も、あとは練習あるのみ。本番では、授業内容も然ることながら、生徒に気を配った授業の展開を。

以上

2011年5月10日火曜日

カセット効果

柳父 章(1976) 翻訳とはなにか 法政大学出版局



以下は、ゼミの課題用としてまとめた物であるため、大部分を割愛したり、特定の箇所を必要以上に取り扱ったりしている。


本書では、翻訳語と「カセット効果」の関係について言及がされている。これらの事に関して、本書では “liberty” “right” “society”、そして三人称代名詞を例にして論じてあるが、前三者に関してはあまりに具体的なので割愛する。本レジュメは、「カセット効果とは」・「翻訳とカセット効果」・「三人称代名詞とカセット効果」の三点からまとめている。

1. カセット効果とは
カセットとは、宝石箱を指す。魅力的であり、「中にはきっと深い意味がこめられているに違いない、という漠然とした期待」をもたせ、「人々を惹きつける」物の事を示す。(p.25)以下ではその「宝石箱効果」とはどんなものかを、もう少し詳しく説明する。

1.1. 言葉自体の意味と反比例する意味
カセット効果を言いかえると、もともと無意味なことばのもつ効果である。と言う事もできる(p.29) 本書にUFOを用いた例があるので、それを引用する。

「UFOを問題にし始めた人々は、地球のできることの限界を知り、ひそかに恐れるかも知れない。あるいは、それは仮想敵国への恐怖心をかき立て、軍事費を増大させるかも知れない。未確認物体は、それが未確認であればあるほど、意味づけによる意味の再編成に与える影響力は大きいのである。」(p.58)

このように、「カセット効果は、ことばの意味の豊かさとは反比例のような関係」に位置するものであるという事が出来る。(p.158)

1.2. もうひとつの意味と矛盾
上に見たようにカセット効果は、言葉自体が持つ意味のほかに、文脈において与えられる「もうひとつの意味(p.85)」をもつとも言える。ここで、言葉のそれ自体の意味と、文脈における意味の間に矛盾が生じる場合がある。これに関しては、「2.2. 翻訳語の矛盾」で述べる。


2. 翻訳におけるカセット効果
2.1. 翻訳語とカセット効果
著者は以下のように述べている。

「翻訳語は、カセット効果をひき起こしやすいことばである(中略)逆に、カセット効果をひき起こしやすいことばが、翻訳語として選ばれるのである」。なぜなら「ことばを選び、定めるのは(中略)民衆である」からである。カセット効果を持つ語は、「自分たちの日常語の文脈に解消されないような差別可能な語感を残して」いる。この「異質なもの」という感覚がカセット効果である。(p.158)

2.2. 翻訳語の矛盾
これに関して、本書から読み取ったことを自分なりにまとめると以下のようになる。

rightを「権」と訳した時点で、right=権と思いこんでしまう。ここにカセット効果が生まれる。ここで矛盾が生じることもある。rightは、市民が持つことが出来るが、日本語の権は市民ではなく「御上」がもつものであった。そのため、「市民の権利」という訳には矛盾がある。しかしその矛盾をも飲み込むのが、カセット効果である。

ここには、「翻訳語とその原語とは、同じである」という「日本知識人の抜き難い通念」が反映されている。(p.62) しかし翻訳語は原文の一部を伝えているにすぎない。ならばいっそ、「もっと意味の少ないことばをもってきて、機械的に置き換えていった」ほうが、つまり、カセット効果を用いたほうがよいのではないか、という意見(p.166)である。


3. 三人称代名詞とカセット効果
もともと「彼」という日本語は「あれ」に相当し、主に物に対して使われていた。しかし、翻訳語としての「彼」は人称代名詞である。ここにカセット効果の特徴の一つである「矛盾」が見られる。(p.184)

3.1. 小説における三人称
先に、「彼」はカセット効果をもつと述べた。つまり、「彼」は未知の意味を包括しうるという事が言える。これを効果的に使った小説も見られる。それは現在においても言う事が出来る。(p.189, 204)

3.2. “空白”を埋める三人称
本書が引用している、奥村恒哉の「代名詞『彼、彼女、彼等』の考察」の一節に、「『彼』といふ新しい言葉は(中略)今まで空白になつてゐた所へ主格所有格を充填する、といふ役割を果たしてゐるのである。」とある。(本書p.175) しかし本書では「今まで空白になつてゐた」という表現に反論している。まとめると、空白があったのではなく、「彼」という新しい要素が入ってきた後に振り返ってみるとそこに空白があったように感じられるだけだ、と言う事である。

2011年5月5日木曜日

親子の絆

市川拓司(2005)『弘海 ~息子が海に還る朝~』 朝日文庫



1.「物語の構成・あらすじ(一行)に関して」、2.「作中のあるテーマに関して」、3.「感想」を、簡単にまとめる。

1. 構成・あらすじ
1.1. 構成
「現在」という時間の中に、「過去」の回想が有機的に組み込まれた作品。よくある、「一見関係のない二つの話が最後につながる」というものでは無く、「現在」と「回想」が上手く結びついているため、時間のずれを意識せずとも簡単に内容の把握が出来る。
1.2.あらすじ(一行)
「特殊な個性を持った」息子に、その生い立ちを記した手紙を書くと言う約束をした父と、その家族の絆を書いた作品。

2. 思い出
本書は、父の視点から書かれていて、息子の幼かった時のことを回想する場面が多くある。その回想の中で、息子の一挙手一投足が事細かに描写されていて、父の子を思う気持ちが伝わってくる。本文中の息子の「パパ、だいすきだよぉ!」と言うセリフが、時折自分に向けられているようでなんだかムズ痒くなる。ついつい「父」の視点に立って、本当にわが子の生い立ちを振り返っているかのように感じさせられる。

3. 子どもができたら
なんだか、将来こどもを持つことを夢見させられます。そこで、こどもができたらこんなことをしたい・させたいというリストを以下に作成してみようと思います。
①は男の子なら、②は女の子なら、③はどちらでも

③習い事(音楽系統)をさせる
③「柱の傷」をつける
③本を読ませる
③本を読み聞かせる
①釣りをさせる
①キャッチボールをする
③公園で遊ぶ
②彼氏が出来たらすねる
②結婚式で泣く
②パパと呼ばせてみる
①目で会話する

きりがないので、そろそろ現実逃避をやめます。



2011年5月3日火曜日

森ガールと翻訳

森ガールは自然を侮っている

これは、友人の奥君のつぶやきからとったものである。もちろん、真剣に否定しているというよりは、ジョークのようなものだと理解している。また、ここに記載することへの許可は得ていない。彼の意向次第では、この記事の修正、引用元の提示、ひいては削除も考えている。
要約すると、

「あの格好で森に入ったらかぶれる。森を侮っているのか。」

というものである。

この意見には、私は個人的には大賛成である。また、なぜ「森にいそう」というテーマにしたのか、そしてなぜそれが受け容れられ、流行ったのか、理解できない。しかし、蓼食う虫も好き好き、『他人の好みは分からない』などというように、他人の好みに“いちゃもん”を付けるのはよくないという考えもある。そこで、高校の国語の時間に読んだ「自然に関する文章」をきっかけにして、「森ガール」に関しての“休むのと同じような”考えを巡らせた。以下はその考えのまとめである。


人工的な自然を、自然と「自然」と呼ぶ私たちにとって、森ガールは自然な産物ではなかろうか。というのも、これまでも自然は管理されてきた。その点において「自然は管理されたもの・安全なもの・美しいもの」と言う風に認識されて来たと言える。しかしそれを「侮っている」とは言わなかった。
つまり、森ガールは自然の「管理」がいき過ぎた形であり、侮っているつもりはないのではないか。

ここで、夏目漱石の『三四郎』に、関係があるように思える箇所を見つけたので、引用する。

「君、不二山を翻訳してみたことがありますか」
と意外な質問を放たれた。
「翻訳とは・・・・・・」
「自然を翻訳すると、みんな人間に化けてしまうからおもしろい。崇高だとか、偉大だとか、雄大だとか」
三四郎は翻訳の意味を了した。 (夏目漱石 三四郎より)

このことから、森ガールは自然を翻訳した形なのではないか、と考えることが出来る。

翻訳は、一種の解釈である。解釈には多様性がある。
ここでも、自然を「ファッション」という風に解釈したものと、「危険なもの」という風に解釈したものとあった。
そしてそれぞれの翻訳結果が「森ガール」であったり、「サバイバルてきな何か」であったりするのだろう。

筆者はここに、翻訳の多様性を見る。

2011年4月25日月曜日

普段聞こえないもの

Twitterの機能を試すためのテスト更新のついでに
mixiの日記から引っ張ってきました。


ジョイフルにて。
今日何気なく音楽を聴いていると、普段より数倍もいい曲に聞こえた。

小説を読んでいる時でした。

人間の性質である「同情」能力を駆使して物語を読んでいる最中。
何となくいつもよりセンチメンタルな感じの時。
後ひと押しで涙がこみ上げてきそうな時。

大好きなGreen DayのMinorityが流れてきました。

その時、その曲が何とも言えないくらい良い曲に聞こえて、
なんだか楽しそうに演奏したりうたったりしている様子が垣間見えてきた気がしたり
人間って一つになれるんだ!!なんて悟った気になってみたり

とにかく、普段じゃあ聞こえてこないことが聞こえてきたように思えました。



もしかしたら普段も、こんなに楽しそうな演奏がiPodから流れていたのかもしれません。
もしかすると、普段は曲調とか歌詞とかに気を取られて聞き逃していたのかもしれません。
表面だけなぞって、もっと深いところを聞いていなかったのかもしれません。

音は変わらずそこにあっても、
受け手の気持ち次第で
聞こえ方は違うのかな、と思いました。

聞こえないこと
見えないこと
読みとれないことを

もっと読み取れる人間に成りたいです。

2011年4月15日金曜日

日本語の語順

湯を溜めてお風呂に、おれは入る


湯を溜めておれはお風呂に入る


お風呂に湯を溜めて、おれは入る


お風呂におれは湯を溜めて入る


おれはお風呂に湯を溜めて入る


おれは湯を溜めてお風呂に入る



「入る」は最後に来るそうです


もし破ると


入るお風呂に俺は湯を溜めて…

→いまから入るべきお風呂にお湯をためてから、おれは…(以下以下のことをする)


意味がかわる


それに、なんか尻切れトンボ


…ちなみに、尻切れトンボは小三・四のとき先生に、

君の作文は尻切れトンボだ

と言われてからずっと心の隅に残ってます。

尻切れだったのか、後に『含み』を持たせる技術を持っていたのか…←前者


話がそれたついでに。
親に
「尻切れトンボ」ってなに?

って聞くと


『トンボをつかまえて、そいつの尻尾の先にに糸を結び付ける。そしたら「トンボを散歩(散飛?)」させる事ができる。でもたまにそのトンボの尻尾がちぎれて、トンボは尻がないまま飛んでいく。
それがもとなんだよ』


なんていう
かなりショッキングな遊びの話をきかされました。


尽きましては、
お風呂に行って来ます。

2011年4月13日水曜日

関白宣言の派生形

さだまさしの関白宣言を知らない人は(少なくとも聞いたこともないという人は)いないだろうと思う。だがしかし、それに色んなアンサーソングや、そこから派生した歌があることはあまり知られてないのではないか。特に、「部屋とYシャツと私」が、実はアンサーソングだったなんて、、、少なくとも私は知らなかった(無知)。以下に、私が「いいな」と思った作品をここにメモする。

1、seamo 関白
2、平松愛理 部屋とYシャツと私
3、さだまさし 関白失脚
4、沢知恵 逆・関白宣言

1~3は動画があるのでそれを、
4
に関しては、歌詞のみを掲載。


動画
seamo
 関白
http://www.dailymotion.com/video/x3nk1g_seamo_music

部屋とYシャツと私 平松愛理
http://www.youtube.com/watch?v=re3PzspwEWo

さだまさし 関白失脚
http://www.youtube.com/watch?v=pq9hnKyZtuU&feature=related



歌詞
沢知恵 逆・関白宣言
http://www2.masashi.ne.jp/youyou/sp_cd_1.html