一冊目:友情を疑う~親しさという牢獄~ 清水真木著 中公新書
私はこの本を完全に理解できませんでしたので、書いてあることの2割は正しい、そのほかは大ウソだ、というつもりで読んでください。
内容理解において何よりの障害になったのは、
「時代背景の知識の欠乏」
高校時代の自分を恨みます。
もう一度読む山川日本史・世界史を読もうかな。
さて、この本の目標は、
「友情とは・友人とは何か」
という命題を哲学的に探究していくことです。
その問題提起はアリストテレスの死に際の言葉から始まります。
「友人たちよ、友人などいないのだ」 i (はじめに)
明らかに矛盾するこの発言から、友人とは、という命題が出てくるのはいたって自然なこと。まずはこの本から読み取れる、四種類の友情の定義:「友情論」についてみていく
1.公的空間における、意見や利害の共有を目指す意思があること(アリストテレス・キケロ・他)
2.自分の分身であり、鏡であり、それによって自分を知ることができる存在であること。(モンテーニュ他)
3. 二人の間に親密な空気があり、その中で利害の一致を目指すこと(ルソー他)
4.愛(引力)と尊敬(斥力)が均衡していること(カント他)
①公的な付き合いをする人が友人である。たとえば、政治家たち。日本語に当てると、「同志」と言い換えることもできる。この友人関係を形成するにあたって、親しさは必要ない。むしろ、害である。このことは、政治家たちの間に親しさがあることが、公共の利益を損なう原因でありうるという点からもわかる。
②二人で一つであるから、友人らはお互い対する義務を持たない。私自身に対する義務だけで十分である。つまり、命を捨ててまで助けることはない。なぜなら、こちらが命を捨てることは、相手が命を捨てることと同義であるからだ。自分の命を捨てて自分を助けることができないのと同じ。また、①にあるように、公共に従事するよりは、誰かを友人として持つことの方がはるかに価値をもつとしている。
③※1人間は生まれながらにして友情を持つ。それは全人類に(誰かれ構わず)向けられるものであり、誰もその友情を感じることを拒否できない。人間は、他の人間に共感する本能がある。そして、相手がどんなに自分と違う考えを持っていても、それに共感してしまう「道徳感覚」を有する者は友人である。つまり、※2「人間」=友人である。(ルソーは、特に、負の感情の共有:慰め合いを、友人の条件としてもとめた)
④友情とは(なんだか)脆いもの。その脆さは、斥力の脆さにある。つまり、友情とは斥力である。いくら疎遠で関係が希薄になっても、友情は壊れない。むしろ、そこに働く斥力(尊敬)を無視して引力(愛)を前面に押し出し、近づこうとするときに、友情は壊れやすい。
※1 懐疑的な命題
※2 「人間」とは、問題の共有、合意形成を図る意思を持つもの、という考え
どれもなるほど、と思ったり、疑ったり。
この本も、結局友人・友情とは、に対する結論は出なかったと述べている。本そのものを読めばもっとわかりやすく、詳しく書いてあるのだが、これ以上踏み込むのは私の能力の限界を超えてしまうので、この辺でまとめを。
友人たちよ、友人などいないのだ。
この命題の解釈を自分なりにしてみると、
私の死を悲しみ、嘆いてくれる、私に共感してくれるものたちよ、ここにある共感の姿勢や温かさは、公共の世界と相容れることはないのだ。
言い訳:
この本は、「市民的公共性」 と友人の関係を歴史的変遷とともに説明したり、それによって現代の「友人・友情」は、本来の意味とはかけ離れたものだという意味のことも言っている。①~④までの項目も、こういう細かい情報を加えることで意味をもつものなのかも知れない。つまり、自分の理解に基づいてまとめたせいで、この記事は原本の言わんとすることを取り逃してしまっている嫌いがある。少しでも興味をもたれた方は、こんなスクラップ記事は早々と忘れて、現物を読まれることをお勧めします。
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