市川拓司の小説を読んでいると、人間っていいなと思ってしまう。「こんな親になれたらいいな」とか、「こんな友達がいたらいいな」とか。特に、“よい父親像”がここにあるように思います。昔の「星一徹」みたいなザ・日本のお父さんではなく、いわゆる「クッキングパパ」的なお父さん。個人的には「一徹派」ですが、現代日本に合うようなお父さん像もいいなと思ってしまいます。
また、どの登場人物を見ても、だれもが一度は夢見たような人間であるように感じます。男性でいえば、「誠実で、いちずで、不器用だったりしながら自分を持っている人」とか、「容姿端麗・頭脳明晰かつ遊びはやってるといういわゆるイケメン」とか。女性でいえば、「容姿端麗頭脳明晰でモデルをやってる(やってたことがある)人」とか、「快活でボーイッシュな美人」とか。
要するに、異性に気に入られる条件を(ひそかに)そろえた人間。
そんな人たちのお話なので、「理想的」で「現実味がない」ような気もします。しかし同時に、読んでいて、「いいなぁ」と思います。
本書も、読んでいてとても楽しかったし、いいなぁと思いっぱなしでした。タイトルからの連想や、物語の構成など、楽しむ要素満載だったように思えます。しかし、読み終えての感想は、「いい構成だった」などという評論家じみたものだけでした。
いいセリフや、いいシーンもあったように思えますが、どことなく嘘くさく、しっくりこない。テストで30点を取った後に、100点の答案用紙(模範解答)を見たような気分になりました。
「いや、そんなん分からんし。どっかの参考書みたいな答え書きやがって」
という、「自分ができないことへの弁護」じみたものや、「非現実性・不可能性」を見出し、気分がなえてしまうような気分です。言い換えると、こんなに完璧な答案はあり得ない、という具合に、こんなに完璧な人間はあり得ない、といった感覚でしょうか。
もちろん、アニメなんかの主人公は「理想的な人間」である必要があります。ポケモンのサトシは、バトルに負けても、その悔しさを押し殺して相手と握手し、次に進む姿勢を見せなければいけません。トイレに引きこもった挙句、“仲間”が声をかけても「うるさい」としか返事をしないようではだめです。もし仮にそうなっても、周りの“仲間”に励まされて復帰しなければいけません。周りに見捨てられたり、引きこもりになって「ニコ生」中毒になったりしてはいけません。(それはそれでおもしろいかもしれませんが)
こうした「美化」があると、どうしても純粋に感動できません。「すげぇ。こいつ100点取りやがった。特にこの回答は素晴らしい」という感動になってしまいます。あくまでも他人の解答用紙です。ただ、「それがいいんだ」、と言われれば納得しますし、そもそも本書はそういう目的で書かれたものなのだろうとも思います。
この辺はやはりどうしても、「個人の好み」というところに落ち着くと思いますが、僕は四五十点の答案のほうが好きです。
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