文部科学省が下ろした英語教育
「しゃべれ」「使える英語を」「コミュニケーションだ」「ただし、語彙は増やせ」
現場の対応
「1min トーク!」「でぃべーと!」「すぴーち!」「たどく!」(ワイワイガヤガヤ)
ダークホース
「学びの共同体」
馬鹿
「つ翻訳機」
あほ
「おれ、大学いかね。」
英語教員
「ぐえー」
うんこ
「民間試験導入」「いや、やっぱやめるわ。反対多いし。」
英語教員「」
みたいな英語教育、今後どうするの?
結論としては、英語教員がこの現状を受け止めて(受け入れるとは言っていない)、それぞれが信じるところに向かって動けばイイ。
以下、次の項目順に展開。
1.英語という科目の必要性
2.翻訳機を受けての英語教育
3.自分はどうすればいいのか
1.英語という科目の必要性
a.使える英語を身につけるため
→翻訳機でおけ。心の友を作りたいなら、その必要性が出てきたときにやれば良い。その方が良く身につく。
b.日本語を再考察するため
→他言語との比較によって、より深い理解へ。国語という教科の一環でやるには中途半端。これかも。
c.生活を豊かにするため
→音楽のようなもの?この考えもありそう。
要は、英語を使えるようになるためではなく、異文化にふれ、母語と違う構造の言語から「言語」への理解を深めるもの、としての英語が求められる。
2.翻訳機を受けての英語教育
翻訳機でいいじゃん。終わり。なのだが、翻訳機がどのレベルまで正確なのか。たとえば、方言を使って書いた日本語、若者言葉、「いける(美味しい、可能である)」のような微妙なニュアンスを持った言葉を翻訳して、正しく自分が思ったものになるのか。という問題も考えられる。とすれば、「翻訳機を使いこなすにはどうすればいいか〜翻訳間違いの見ぬき方〜」のようなものも英語教育が担う時代が来るのかな。
3.自分はどうすればいいのか
以下、自分の今の思いについての備忘録。
学びの共同体の考え方には賛同する。学びの共同体とは、ざっくり言うと、「課題を解決するだけじゃなくて、自ら課題を見つけることも大事。分からないことを生徒同士で共有して、生徒で解決。その時は、聴く、を一番大事にする。3人よれば文殊の知恵」。ただし、これは英文読解、翻訳の形を取りやすい。英語でのやりとり、とはなかなかならない。
即興性について、コミュニケーションへの意欲、という面と、言語発話における瞬発力、即時的な思考力、という面があると思う。そういう意味では大事。でも、これだけではいけない。
翻訳機があるなら、ビジネスなどで「使える」英語を身につけさせる必要はなくなってくる。ならば、いつか翻訳機を通さずに話がしたいと思ったときに、外国語を身につける方法がわかるように、そのときに勇気を持って発話に繋げられるように、という指導になるの?
→とりあえずしゃべる。単語だけでいい。(一段階)
→文として発話できるように。ただし、文法はいい。I blue like!(二段階)
→例文を参考にするなどして、語順に注意して言えるように。(三段階)
→これって、英語でなんて言うの?という疑問を発見(四段階)
→辞書などで調べる(五段階)
→一段階目に戻る
→いずれは、先生が要らないように。(目標)
このとき、発話した英語を表記すること、書かれた英文をなんとか読解すること、も併せて押さえたい。
つまり、軸は、「何これ?調べたろ!」「何やこれどうなっとんや?考えたろ!でも分からんから聞いたろ!」ってなれる生徒が作りたい。中学卒業するときに、「英語?辞書調べたり翻訳機かけたらいけるやつやろ。体当たりで覚えたろ!」って言う勢いで取り組める奴にしたい。そのためには、知識や読解への欲を植え付けたい。知ること、パズルのように読み解くことの楽しさを教えればいいのかな?
おわりに
まとまりがなく、結論がしょぼい。取り敢えずの叩き台として残し、迷ったらここに還ろうと思う。
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