「クリスマス・ブックス」 C.ディケンズ 小池滋・松村昌家 訳
落語もクリスマスキャロルも好きな私としては、非常に興味をそそられる一冊です。
そしてその期待が大きかった分、がっかりしてしまった点があります。
これは落語の口調ではない。
ところで、わたしは本書を徹底的に批判するつもりはこれっぽっちもありません。
というか批判する資格すら持っていません。
落語調で訳すという発想は素敵ですし、そもそもそういう発想ができること自体が素晴らしいことです。あとから批判なんてバカでもチョンでもできます。
しかしあえてここで不満を漏らし、読書録の一つとして取っておこうと思います。
気になった点を2点挙げ、その後で感想を簡単にまとめます。
・不適切な訳語
最初の1ページは、CV古今亭志ん生で脳内再生をしながら楽しく読みました。そして2ページ目、「遺言執行人」という単語で志ん生が消えました。
落語は大衆に向けられたものです。こんなムツカシイ表現はほとんど出てきません。かわりに、「遺言をなんやかんやする人」とかいう表現になるのではないでしょうか。もちろん、その次に出てくる「遺産相続人」という単語はそのまま使われてもいいと思います。なぜなら、「遺言執行人」と違って一般に知れ渡っている単語だからです。
・不適切な文体の採用
本書に、「友人―といっても一人しかいませんが―代表(p.12)」 という箇所があります。原文の文体をそのまま採用したのでしょうが、落語調ではありません。落語調にするなら、
「友人代表、といっても一人しかいないから代表もクソも無いんですが、」といったような形になるべきでは無いでしょうか。
・まとめ:翻訳のあり方
翻訳は原文の雰囲気をそのまま表現することを目的としている、という事を聞いた覚えがあります。つまり、原文を読んで得た感想とまったく同じものが訳書を通して得られなければならない、ということです。その手段としては様々あります。分かりやすいものでは、原文と同じような文体・単語の配置を用いるものです。
(例)This is, what we call, an apple. → これは、我々の言うところの(いわゆる)、りんごである。
他には、文体や単語の配置どころか単語そのものが少しくらい変わるのは構わんからその意味を忠実に表そう、というものです。
(例)This is, what we call, an apple. → いやコレどう見てもりんごっしょwww
今回の例がアレなのは置いといて、本書の訳は後者を採用するべきだったのでは無いでしょうか。本書の目的は、「クリスマスキャロルを落語として聞かせること」だったはずです。ならば、原文の文体にこだわらず、落語の文体を訳文に採用すべきだったのです。
私は自分なりに、クリスマスキャロルの訳を落語調に訳し直すという作業をしてみようかと思いました。英文から訳せよっていうツッコミは無しです。
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